俺が食パンを差し出すと、相原は意表を突かれたように大きな瞳を丸くした。
よし、いい反応だ。
ヒロインプロジェクトを引き受けたものの、はっきり言って俺は全くやる気などない。
わざわざ苦手な早起きをして、こんな風に集まったのも、一刻も早く相原に非情な現実を突きつけて、この馬鹿なプロジェクトから手を引くためだ。
──「思い出せ。元気しかとりえのない平凡なヒロインが学園の王子様に溺愛される──これぞ少女漫画の黄金パターンだ」
ああは言ったが、もちろん、現実ではあり得ないからこそ漫画になるのだ。
この時点で相原には目を覚まして欲しかったが……
──「さすが一ノ瀬君! 盲点だったよ。実は私みたいな普通の女子にこそ、チャンスがあるってことだね!」
普通じゃない! おまえは普通よりかなり馬鹿だ!!
内心、大いに叫びながら、相原に諦めてもらう作戦その2に移行した。
ザ・少女漫画のベタなシチュエーション、『食パン遅刻少女』……しかし現実でこんなことをするなんて、羞恥プレイ以外の何物でもないはずだ。
これなら相原でも気が引けるに違いない。
ほら、思った通りだ!
心の中でガッツポーズをしながら、俺はあえて不機嫌そうに眉を上げてみせた。
…………そこ?
相原はノリノリのようだった。マジか。
満面の笑みで敬礼をする相原。この女、ガチでやる気だ。
もうどうにでもなれ、という気分で曲がり角にある植え込みの後ろに身を潜め、柏木が来るはずの方に視線を向けていると、ほどなくして白を基調としたジョギングウェア姿のイケメンが、颯爽と駆けてくるのが見えた。
規則正しいリズムを軽快に刻みながら、生まれつき色素の薄い髪が太陽光に透けて輝く。
秀でた額を流れ落ちる、光る汗。零れる吐息。
柏木とはたまに話す程度の仲だが、本当に、ミントの風が吹いてきそうなほど爽やかな奴なんだよな……。
相原の弾んだ声とともに、通話が切れる。
高校の始業時間は八時半。こんな早朝で遅刻もへったくれもないだろうが──
相原はなんの臆面もなく声を張り上げてから食パンをくわえるや、曲がり角に向かって突進する。
一方、柏木はちょうどその瞬間、ほどけていた靴紐に気付いたのだろうか、ふと足を止めてしゃがみこんだ。まずい……!
結果、全力で突撃してきた相原の膝が、柏木の顔面に勢いよく衝突し──赤いものをまき散らしながら、柏木は後方に吹っ飛んだ。
……なんという惨劇。
地面に腰を落とし、鼻を押さえる柏木の掌から赤い液体が漏れていくのを見て、相原が悲鳴を上げる。曲がりなりにもヒロイン目指すならそこは「キャー」にしてほしい。
流血しながらも弱々しく微笑み、相原を気遣う柏木は、マジでいい奴だ。
慌ててポケットや鞄を探る相原だが、生憎忘れてきていたらしい。
相原が差し出したのは、食パン。
アホかー! 怪我した男に食パンを差し出すヒロインがどこにいる!
吸収力は高そうだけどそういう問題じゃない。
わずかな沈黙の後、柏木はどこまでも紳士的に断ると、ポケットティッシュで鼻を押さえ、「じゃあまた、学校で」とそそくさと逃げるように去っていった。
柏木の遠ざかる背中に向けて力なく手を伸ばす相原の傍へ、両腕を組みながら近づく俺。
正直、ここまでの展開は予想外だったが……道路に点々と飛び散った血痕が、なんとも生々しかった。相原が、しゅんと肩を落とす。
パッと顔を上げた相原の全身からは、メラメラと燃え上がるやる気の炎の幻覚が見える気がした。
適当に答えただけだったが、相原は「なるほど!」と大いに感心したように頷く。
両手を握って、うっとりした眼差しでここではないどこかを見つめる相原。
頼むからさっさと諦めてくれ。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。