私は上嶋くんに向けて手を伸ばす。
喰べたい喰べたい喰べたい――
上嶋くんを、喰べたくない。
私が上嶋くんに襲いかかりそうになったその時。
ばっと皐月ねえが私の前に躍り出る。
鞄の中から何かを取り出した――
後ろで縛った髪が天使の羽みたいにぱさりと舞って、私を抱きしめる――
と優しく、透き通るような声で呟いた。
ちくりと腕に小さな痛みが訪れた。
注射器から透明な液体が私の体に注入された。じくり、という痛みとともに体の熱が引いていく。力が抜けた私は、ぺたりと地面に座り込んだ。
皐月ねえが背中を擦ってくれる。
皐月ねえが密やかな声で呟く。
確かに、さっきまでの苦しいほど強い衝動が嘘みたいに治まっていた。
だけど、どうして皐月ねえが?
上嶋くんがおそるおそる近づいてくる。
疑念か、心配かわからない表情。
ぎゅっと握った拳が震える。
さっきまであんなに熱かった体が、絶望に冷え切って凍えそう。
自分の体がこんなにも冷たくて、君とは全然違うんだって思い知らされる。
皐月は白いカードをちらっと出して鞄にしまう。
皐月ねえは私のスカートポケットから錠剤を取り出す。
皐月ねえは私にだけわかるようにウィンクして薬を渡した。
もちろん、ポケットには薬なんて最初から入ってない。皐月ねえが入っていたフリをしたってことだろう。
上嶋くんは考え込むように額を押さえる。
ううん、と上嶋くんは唸ると真剣な面持ちで私の肩に手を置いた。
ぼぼぼ、とまた熱が上がる感覚。
上嶋くんは頭をがしがしとかきながら言う。
手のひらで顔を覆っているけど、目だけは真っ直ぐこちらを向いていた。月明かりが上嶋くんを照らして、白い肌が上気しているのが分かる。
助手として? それとも……
皐月ねえの叫びにびくっと体が硬直し、振り返ると体をずるずると引きずって地面を這いつくばっている三好先輩が見えた。
ノロノロと這い出している三好先輩に容赦なく皐月ねえは疾走タックルをかまそうとしていた。
結局、三好先輩は皐月ねえにベルトで入念に拘束された。
身動きの取れない三好先輩は諦めたように笑った。
上嶋くんはぐっと堪えるように、低い声で尋ねる。
妹のことを思うと辛くて食人鬼が許せないんだろう。
ちらっとこちらを見られて、ついぎょっとする。
上嶋くんが胸ぐらを掴んでくいかかる。拳を振り上げて今にも殴りかかりそうだ。
ぴたりと、上嶋くんの拳が止まる。
三好先輩が挑発するように笑うと、上嶋くんはまた腕を上げる。
私は上嶋くんの腕を止めて二人の間に入った。
上嶋くんは一瞬眉間に皺を寄せたが、腕を静かに下ろした。
バチンっ!
乾いた音が夜の山奥にこだました。
頬を叩かれた三好先輩は何が起こったかわからず、唖然としている。
私は少し赤くなった頬をそっと触る。
三好は鼻で軽く笑う。
素っ気ない言葉とは裏腹に。
母親を見つけた子供みたいに目を潤ませて、
泣いてるように彼は笑っていた。
さっと上嶋くんが不機嫌そうに、私が三好先輩の頬に添えていた手をどかして話に入ってくる。
上嶋くんとしては早く犯人を聞きたいんだろう……にしては少し焦っているような?
三好先輩と私の間に入って、三好先輩に触れていた手を代わりに上嶋くんが強く握っていた。
三好先輩はため息をつくと、ゆっくり口を開いて慎重に語り始める。
その刹那――――
バサバサバサバサバサバサっ!!
という耳障りな羽音に急に包まれて――
――――三好先輩が消えた。
羽音の正体はコウモリの大群だった。キィキィと鳴き声をあげながら、辺りを飛び回っている。
見上げると高い木の枝に人影が立っていた。
その人影は三好先輩を抱えている。
暗い中で目を凝らすと、青い光沢を放つ黒いフード付きコートを着ており顔は仮面で覆われていた。
ハートを逆にしたような、印象的な仮面。
仮面で隠れていない口元がにいっと、こちらを見てつり上がったような気がした。
皐月ねえが追いかけようとするよりも先に、仮面の人影はすうっと木々の闇に消えた。
叫んだ声も森の奥に飲み込まれる。
あの人影はーー?
突然の誘拐に私は戸惑うことしかできない。
だけど上嶋くんはなぜか落ち着いていた。
上嶋くんは突如現れた仮面の人影を知っているようだった――。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。