雨が降る夜だった。
駅近くのガード下、道の傍らにうずくまっている男がいた。
そこは、昼間からホームレスがたむろっている場所。
いつもなら気にとめることもない日常の風景。
足早に通り過ぎようとして、何かがひっかかり、足を止める。
呼吸が。
男の呼吸がおかしかった。
心臓発作なのか、息が止まりかけてた。
なんでそんなことに気が付いてしまうんだろう?
気付かなければ、黙って通り過ぎていけたのに。
「救急車呼んでください!」
周囲に怒鳴り、男を仰向けに寝かせて、心臓マッサージを始めた。
風呂に入っていない人特有の体臭が臭う。
ほとんど食べていないのだろう、痩せてガリガリの体。
顔は。
思ったより若いのかもしれない。
骨格は整って見える。
でも、肌はボロボロだったし、厚めの唇もひび割れている。
髪はざんばら。
ヒゲも伸び放題。
助けは何分で来るかな。
30分以上は続けられない。
間に合わなくても誰のせいでもない、と自分に言い聞かせた。
病院で意識を取り戻した男は、何を聞かれても答えなかった。
切れ長の目は、充血している。
最初は耳が聞こえないのかと思い、耳元で大声を立てる。
うるさそうに眉をひそめた様子から、聞こえていると知る。
所持品は、音叉(おんさ)ひとつだけ。
なんで音叉なんか持ってるんだろう。
財布も携帯もない。
着ているものは、上下バラバラのスウェットで、拾ったものかもしれなかった。
下着は履いていなかった。
体に異常がないか調べる為に病院の衣服に着替えさせられる。
ぼくは、搬送を依頼した責任から、病院の指示があるまで帰れない。
病院は、警察に連絡した。
このままじゃ、費用は誰が払うのかわからなかったからだ。
男は、警察の制服を見て、何かを諦めたようすだった。
静かに涙を流したのを見て、犯罪者を疑う。
いずれにしても男は、相当体が弱ってるから、すぐに退院はさせられないだろう。
男の処遇をどうするかは、役所が決める。
簡単な調書を取られ、連絡先を置いて、ようやく解放された。
ぼくは男のことを忘れて、日常に戻る。
ぼくは中川勝就。
銀行員をしている。
融資担当で、毎日、有用な企業を見つけて、億のお金を貸すのが仕事だ。
10日ほど経って、警察から連絡が入る。
男が病院からいなくなったという。
見かけたら連絡することを約束した。
それから、街中で浮浪者みたいな人を見つけると、思わず凝視するようになった。
ちゃんと食べているのだろうか。
弱って抵抗力を失った体は、いろんな病気を拾うだろう。
関係ない赤の他人だが、妙にひっかかった。
でもきっと、もうこの街にはいない気がした。
そこから駅でよっつ。
お客さんのところを訪問した帰り。
サンドイッチを食べようと、近くの大きな公園に寄った。
そこのベンチに、男が寝ていた。
病院着は脱いで、また適当なものを着ていた。
伸びっぱなしの髪は、病院で切られたのだろう、短くなっていた。
ひげはまた伸びている。
忘れない、不健康そうな男の顔。
ぼくは自販機でみかんジュースを買った。
「こんにちは」
男は答えない。
ぼくは冷たいジュースを男の手に当てて、もう一度声をかけた。
男は目を開け、ぼくを見た。
その表情から、ぼくを覚えていると確信する。
「病院出てったって聞きました。
みんな心配してますよ?」
男はたいぎそうに、起き上がる
「あの。
お世話になって、ありがとうございました。
でも。
連絡、しないでくれませんか……困るんで」
初めてしゃべった男の声は、低く、深く、丁寧で、心地良かった。
まともな人だとわかる。
自分の中に湧き上がる好奇心が抑えられない。
「毎日どこで寝てるんですか?」
男は困ったように目を伏せた。
「じゃあ、連絡しないんで」
男が視線を上げてぼくを見た。
ぼくは男の手にみかんジュースを押しつけて笑ってみせる。
「ぼくのうちで休みませんか?」
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。