ぼくはまず、男に風呂を使わせた。
洗ってやる為に一緒に入ろうとしたが、どんなに痩せてても、成人男性ふたりでユニットバスは、狭い。
男は、
「自分、で。
洗える、から」
という。
信じてなかったが、野良犬を洗ってやるのとはわけが違う。
羞恥心があるなら、精神はまだまともだ。
ぼくは、ぬるめに、40度設定でバスタブにお湯を張った。
「洋式に、中で体洗っていいから、出る時お湯抜いて出て?」
シャンプーや、ボディソープを示し、タオルを渡す。
洗濯済みの清潔なバスタオルを外に置いた。
男が体を洗っている間に、着替えを用意する。
ストックの未使用の下着、洗ったTシャツ、ハーフパンツ。
少し肌寒いから、カーディガンを羽織ってもらおう。
冷えた体には靴下もいる。
ザアザアと音がする。
シャワーを使ってるんだろう。
ぼくは温かな食事、って考えて、卵おじやを作る。
残りご飯と適当な野菜のみじん切りを出汁で煮て醤油で味付け、卵を落とす。
ネギもニラも無かったけど、のりをむしって散らした。
まあこんなもんか。
男が出てきた。
ふらふらしながらバスタオルで頭と体を拭く。
着替えを見て、一瞬ためらってから、手を伸ばした。
着替え終わると、脱いだ服の中を探る。
例の音叉を取り出し、ぎゅっと握って、ハーパンのポケットにしまった。
いったい何だろう?
大事なものだということは伝わる。
「おじや作ったけど。
食べられる?」
男が驚いた顔でぼくを見た。
清潔なようすになると、目は大きくは無いが、案外イケてるシャープな顔。
思ってたよりずっと若い。
ぼくと同じくらいか?
「ぼくは、中川勝就っていいます。
良かったら名前、教えてもらえませんか?」
「なか、がわ、くん」
「はい」
「あ、」
「あなたのことは、なんて呼べばいいですか?」
「……ハ、ハルオ」
「春生まれなんですか?
苗字は?」
「……、……」
痛そうな顔をして黙ってしまう。
ぼくは聞くのを諦めて、とにかく食べてもらうことにする。
男は、ものを食べると下痢をする。
ずっとお腹が痛いようだった。
絶対どこか病気だ。
入院させた病院に連れてった方がいい。
あの時、なんらかの検査はしたはずだ。
「あのね、ハルオさん」
ぼくは、男のひげを剃ってやり、アフターシェーブローションを使う。
毎日のお風呂や肌にクリームを塗ることで、だいぶ小ざっぱりとしてきた。
名前は絶対偽名だろう。
「このままにしとく事はできないですよ。
病院に行く為にも、警察に連絡していいですか?」
「……おかね、無いし」
男は首を左右に動かした。
「おれ、は、もう……」
「死んでもいい?」
何にこんなに傷付いてるんだろう?
家族は、友人は、仕事は?
生きたいと願う原動力になるものは、ひとつも無いと言うのか?
「ぼくは嫌です。
たとえ死ぬのだとしても、精一杯あらがって欲しい。
そういうぼくと関わってしまったのも運命だって思いませんか?」
男はぼくを見つめて苦く笑った。
「ナカガワさん、カッコよ」
「良く言われます(笑)」
「そんな、人がなんで。
オレなんか、
かまうんだ?」
「わかりません。
でも関わっちゃったから、もう」
自分でも本当にわからない。
こんな、縁もゆかりも無いホームレスの男を、なんで無視できないんだろう。
出勤すると、いなくなってるんじゃないか、気になってしまう。
帰って施錠を確認するとホッとする。
「黙って出て行かないでくださいね」
って言うと、
「鍵がないから。
部屋開けっ放しにできないよ」
なんてまともな感覚。
おまけに責任感も強いことがわかる。
「部屋には現金も装飾品も、カネ目のものなんか置いてないでしょ?」
昔と違って、保険証券や通帳など、資産を示す紙ものなど何も無い。
今は何でもネットだから。
でも男は首を振る。
「この部屋、テレビもパソコンも、Blu-rayやゲーム機とか、お金になるものがあるから」
アッという間に1週間が過ぎた。
男の下痢は続いて、心配していた矢先、仕事から帰ったらトイレで倒れているのを発見した。
便器の中には鮮血。
大腸がん?
すぐ救急車を呼び、警察へ連絡する。
佐野と名乗る若い警察官に、
「見つけたらすぐ連絡してって言ったでしょ?」
と怒られる。
「彼は、記憶喪失みたいで、身元引受け人もわからないんです。
戸籍も住所も無いから、何もしてあげられない。
家裁に連携して、戸籍を取って、そこから生活保護申請です」
「ぼくができることは?」
佐野さんは警帽を被った頭を振った。
日本は全戸籍制を取っている。
あらゆる福祉サービスは、住所にフックのように連結しているから、住所を失った途端に、行政のサービスから漏れてしまう。
姓名も、誕生日も、何もわからない病気の男。
「ぼく、仕事はちゃんとしてます。
身元引受け人にもなりますよ。
なんなら、扶養に入れてもいいです」
佐野さんは困った顔をした。
「扶養、って、中川さん。
男同士で籍入れるなんてできないから無理ですよ。
せいぜい部屋を貸す、大家になって、彼を店子にするぐらいです。
でもなんでそんな面倒、背負おうとするんです?
家族や恋人、いるんでしょ?
反対されないんですか?」
恋人、は、もうしばらくいなかった。
仕事がキツ過ぎて、余裕が無かった。
行内昇格試験が毎月あり、6個受かるとようやく、副支店長候補への道が開ける。
次は、副支店長試験だ。
行内の営業成績も必要で、毎月毎月ポイントが計算される。
だからみんな、大学から付き合ってる彼女がいるのでもなきゃ、職場恋愛か紹介か。
30歳半ばにならなきゃ結婚考える余裕ができない。
それなのに、こんな男を拾ったなんて、家族は当然反対するだろう。
でも、理性とは別に、感情が。
男を見捨てるのは嫌だった。
男は、栄養失調から、多臓器不全を起こしていたが、深刻なのは、潰瘍性大腸炎だった。
大腸がただれて出血し、穴が開きそうになっているらしい。
そのせいで便が作られない。
人間は、何も食べなくても、細胞が絶えず新しく作られる。
古い細胞は、便となって排出される。
その機能が壊れている。
点滴と投薬は、一生続くという。
でも。
「完治はしませんが、寛解(かんかい)はします。
女性なら赤ちゃんも産めます。
男性も、性行為可能です」
「良くなるんですね?」
医師はうなずいた。
病室へ行くと、男は起きていた。
青白い顔で横たわり、黙ってぼくを見返してきた。
怒鳴りたい気持ちになって口を開き、でもかわいそうで、思わず強い口調で
「にゃー!」
と叱る。
男はびっくりした顔をして、目を伏せ、
「……にゃぁ」
と答えた。
それが、ごめん、と言ってるようで、つい、「言うこと聞かなきゃだめ、わかった?」って気持ちで、
「にゃにゃにゃにゃー、にゃあ、にゃにゃ?」
と返す。
男の目は真ん丸くなった。
そして、次に吹き出して笑った。
初めての温かな笑顔だった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。