前の話
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俺は、あいつのことが好きだ。
けれど、あいつは違うやつが好きだ。
これ以上残酷なことがこの世にあろうか?
今でも、覚えている。
嘲るように、寂しそうに、泣きそうに。
顔を歪めて、あいつはそう嗤った。
あいつは、馬鹿だ。
俺の気持ちなんか、分かったようなフリをしていながら分かっていない。
俺も、馬鹿だった。
あいつの本物を、知ろうとしなかった。
あまつさえ、否定してしまった。
ああ。
もう1度だけでいい。
だから。
もう1度だけ、あいつに、会わせてください。
あいつに、あの言葉を、言わなきゃいけないんだ。
星が綺麗ですね。
そして、もうひとつ。
ー月が綺麗ですね。
俺ー柏原千夏は、図書室が好きだった。
冷たいようなあたたかいような、そんな、不思議な温度で、けれどそれは不快ではなくてむしろとても心地良い。
何しろ、俺は本というものが好きだった。
『本の中』でなら、俺は俺ではなくて、もっと別の何かになれるような気がして。
けれどまあ、俺はそんなキャラじゃない。
仲のいい友達も、ヤンチャをするタイプの奴らだ。
そんな俺が図書室にいるのはバレたくない。
…俺の所属する、京和中学校の、昼休みのみ開いている図書室は、毎度の如くガラ空きだが。
アットホームといえば聞こえはいいが、つまりは、人気のない場所トップ3みたいなものである。
バレるのは困るのでこちらとしては都合がいい。
図書委員も、サボることが多く、滅多に来ない。
……たったひとりの物好きを除いて。
昼休みのチャイムが聞こえると同時に、俺は教室を出た。
友達も、どうせ、どこかで遊ぶのだろうと思ってか、誰も声をかけてこない。
よし。
俺は心の中でガッツポーズをする。
京和中学、略して京中の図書室は、やけに俺の好きなミステリー小説の新刊が入るのが早い。
もしかして、俺のようなファンがいるのだろうか。
……ないか。
ファンの俺からしても、あの作家、売れてないし。
図書室の木製の扉を開けて、真っ先に新刊コーナーへと向かう。
そしてさり気なく周りを確認する。
良かった。図書室に本を読みに来た人はひとりもいなかった。
新刊へ想いを馳せつつ、新刊を手に取り、カウンターへと持って行く。
いつもいる図書委員だということは、顔を見なくても何となく分かった。
常連だからか…?
ピピッ
俺の思考を邪魔するかのように。
高い電子音が鳴った。
ぼそっと呟かれた可憐な声に、思わず顔を上げる。
そして、馬鹿みたいに、口を大きく開けた。
凪音柚葉。
彼女は、有名人だった。
美少女というのもあるだろうし、俺達2年の中でもトップレベルの人気者だからだ。
凪音柚葉が顔を上げて言う。
その声は、何というか、あまり申し訳なくなさそうで、どちらかというと面倒くさそうだった。
くる、とパソコンをこちらに向けてくる。
この図書室では、パソコンで、本の貸し出しをしている。いちいちカードに書いたら面倒くさいし。
図書委員は本のバーコードをリーダーで読み取って、貸りる人の図書カードのバーコードを読み取ればいいだけだ。
パソコンの画面には、大きくエラーコードと赤文字で書かれている。物騒だなおい。
不意に、凪音が瞬きをした。
何となく口どもるも、凪音は目を輝かせた。
思わず身を乗り出してしまった。
ずいと身を乗り出す凪音の目がキラキラしている。
こうしてまじまじと見ると、やはり美少女だな……と深く感じる。
身を乗り出して2人で語って、それから顔を見合わせて笑った。
俺が言うと、凪音も口を開いた。
凪音はきょとんと目を瞬かせた。
俺は淡く苦笑した。
俺の言葉に、凪音も苦笑した。
苦笑ーーだと思う。
だって、目は苦笑の形に細められているし、困ったように口元も上がっている。
だから、これは苦笑だと、思う。
瞳の奥で底光る、自嘲と、苛立ちと、哀しみと。
ほんの少しの寂しさがまとわりつく光。
これは、苦笑ーなのだろうか。
そして凪音は、何かを小さく呟いた。
内緒話をするみたいに、小さくか細い声。
俯いて、寂しげに何かを呟いた凪音に首を傾げる。
俺の名前の前に少し首を傾げたのは、多分、何と呼べばいいのか分からなかったからなのだろう。
なぜかというと、千夏という名前が女子っぽくて、あんまり好きではないからだ。
何故男なのに千夏とつけたのだ母さん……。
俺の答えに、曖昧に首を小さく傾げて、困ったように凪音は薄く笑った。
ー俺は、気付いていなかった。
その答えに混ざった、隔意のような暗い感情を。
……凪音が、何を思って、そう感じたのかも。
俺は、何も、知らなかった。
取り直すように、ぽんと拳を打つ。
凪音は、図書室に並べられた机に目を走らせた。
本来、図書室に本を読みに来た人が座って読むはずが、机の上には、大量の本が置かれている。
クラスメートの図書委員によると、無駄に本の多いこの図書室だから、整理したり補修したりしなくてはならないらしい。
暇な図書委員の数少ない仕事なのだと、その女子も苦笑していた。
保管室には入りきらないし、人も来ないしーという理由で、机に置かれているらしい。
おおよそ、本など読める環境ではない。
さらっと言い切る凪音。
いやそうかもしれないけど…。
カウンターには、何故か2つ椅子が置いてあって、
パソコンの前の椅子に座る凪音の横の椅子に座る。
そして、2人で並んで、本を読んだ。
ただそれだけだけど、俺はこの時間が好きだった。
それから昼休みは必ず図書室に行くようになった。
そして、前からだけれど、凪音も毎日カウンターで1人本を読んでいた。
こいつもなかなかの物好きだと呆れた。
俺がカウンターに入ると、凪音は本から顔を上げて、ひらひらと軽く手を振って、俺も軽く手を上げて応え、それから並んで本を読むという、傍目から見たら何の青春感もない時間。
それでも、俺は、この時間が、好きだった。
普段は、黙って本を読み、友達から怪しまれないように大抵俺が先に教室に戻るのだが、凪音はたまに、唐突に変なことを言い出す。
俺の返答に構わず、凪音は本から顔を上げた。
春の光の差す窓を、眩しそうに目を細めて見つめ、そしてぽつりと呟いた。
独り言のように、こっそりと。
その声は、静まり返る図書室の空気を震わせた。
しんとした空気を、凪音の澄んだ声音が通った。
俺は、一瞬、凪音の言ったことが分からなかった。
言っていることは、何というか、物凄く哲学的で、俺は曖昧に相槌を打つことしか出来なかった。
そう呟いた声は、声も出なくなるほど痛切な願いが込められていて、俺は、凪音を見つめることしか、出来なかった。
窓の外の空よりもっと先ーー過去のような、未来のような、空よりも遠い何かを見つめる凪音は、たとえようがないほど。
うつくしかった。
一瞬のような、永遠のような、そんな時間を、突然壊した音。
ガラッ
立て付けの悪い図書室の扉の開く音に、反射的にそちらに視線を向ける。
ひょこっと可愛らしく、扉から顔を覗かせたのは、これまた有名人の雪川葵だった。
俺は少し身を引いた。
女子より可愛いという声があるのもそうなのだが。雪川といえば、凪音と異様に仲のいい、という噂がある少年だ。
凪音の髪は、さらさらと流れる、綺麗に澄んだ黒色なのだが、雪川の髪も、これまた女子みたいに綺麗な髪に少し茶色がかった黒色だ。
俺は、前友達に悪戯されて黒髪に金のメッシュが入っている黒髪もどきの為少し雪川が羨ましかった。
凪音も親しげな微笑を浮かべて応える。
どうやら本当に仲がいいみたいだった。
何だか分からないけど、今ほんの少しだけイラッとした。いや、ほんの少しじゃなかった。結構イラッとした。
凪音と雪川は、1年の頃はそこまで仲が良かった訳ではないと思うのだが、3月に何かあったのか、2年になり4月、2人が同じクラスになった時にはもう、とても仲が良かった。
大抵2人で行動するし。
…いや、思うと1年生の頃から仲が良かったのかもしれない。
俺も、1年の春ぐらいに、放課後、凪音と雪川が、皆から隠れるようにして喋っているのをなんかかい見かけたことがある。
何やら、いつもシリアスな雰囲気だったから、声はかけられなかったのだけど。
呆れたように半眼で凪音を見る雪川。
その目が不意にこちらを向いた。
何てことないように凪音が答えるから、無意識に、ツッコんでしまった。
ていうか。
こちらも何てことないような顔で答える。
おーい、俺を置いていくなー。
知らない名前が出て狼狽える俺に構わず凪音は首を傾げる。
凪音がくるりと俺の方を向いた。
それ、アリなのか…?
そう言うと、凪音は雪川と一緒に図書室を出た。
凪音がいなくなると図書室には再び静寂が降りた。
凪音と並んで本を読んでいた時も、静かだった。
けど、だけど。
凪音のいない、この、言の葉降る箱庭に。
何かが欠けたような静寂は、少し寂しかった。
私は雪川くんを振り返る。
いつものつんと澄ました顔で雪川くんが答える。
言葉が続かなかった。
伝えたい言葉は口にしようとするたび逃げていく。
ねえ、雪川くん。
私は、君の思うような人じゃないの。
私はーー
ーー誰、なの?
不意に、誰かとすれ違った。
それは、過去の私のようにも、過去の雪川くんのようにも見えた。
すれ違った瞬間。
行き違う、栗色の瞳。
羨望と、苛立ちと、寂しさの渦巻く瞳。
その感情が、私に向けられたように見えた。
思わず振り返ると、瞳と同じ栗色の髪をポニーテールに纏めた少女が、私達の向きと反対に、図書室へと向かっていた。
不思議そうに尋ねる、雪川くんの顔を見て、私は弱々しく首を振った。
もちろん、横に。
寂しそうに、哀しそうに、雪川くんが頷く。
私は、君と交わりたいと望んだ。
君も、私と交わりたいと望んだ。
それなのに、私達は、まだ。
まだ、交われない。
すれ違って、傷つくのを恐れて。
まだ、痛みから逃げている。
皮肉だな、と首を振った。
逃げているのは、私だ。
ハッピーエンドなんか、ないのだ。
あるとすれば、バッドエンド。
けど、私達は。
ハッピーエンドを望んだ。
あの、音楽室のベランダでの出来事は。
ハッピーエンドだった。
そのはずだった。
私達は。
ハッピーエンドの、その先へ。
先を、向かなければいけない。
私は、まだ。
永遠を、望んでしまう。
それは、駄目なことだろうかー?
今日も、答えは出ない。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。