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第1話

序章
6,544
2022/07/31 09:00
 粉雪まじりの強風が頰を叩く。頰についた血と髪も吹き飛ばす、凍てついた夜だった。

 どうにか階段をのぼりきり、城壁の上までたどり着いたジルは、片膝をつく。ちらりと見た城壁の向こう側は、底の見えない暗闇しかなかった。

 押さえた右肩の出血が止まらない。魔力で治癒をしようとしても、うまくいかない。誰かが邪魔をしている。だがその原因を突き止める時間はなさそうだった。

 それにその魔力も、たったひとり、ここまで逃げるために底をつきかけている。

 この状態では、飛び降りて助かるとはとても思えない。
城の兵士
いたぞ、ジル・サーヴェルだ!
 それでも敵の声を聞けば、体は反射のように動く。何年も初恋のひとのために戦場を駆けてきた習慣だ。

 腰にさげた長剣を抜いて石畳を蹴ったジルに、追いかけてきた城の兵士達がひるむ。

 大きく踏みこんで一振り、回転して横薙ぎに、舞のように斬りつけて血路を開こうとするジルに気迫負けして何人かはうしろにさがっていくが、数が違いすぎた。

 徐々にジルは囲まれ、追い詰められていく。

 相手も悪い。つい昨日までジルにとっては仲間、守るべき国民だった。どうして、という思いが失血も手伝って剣さばきをにぶくする。

 ついにジルは尻餅をついて、兵達の槍に、剣先に囲まれた。
城の兵士
そこまでだ、ジル
 何より、凜とした声がジルの身を震わせた。

 兵の奥から、城壁に立つには不似合いな出で立ちの青年が現れた。吹雪く強風にはためくマントの色は群青。クレイトス王国の王族のみに許された、女神の禁色だ。
ジル・サーヴェル
ジル・サーヴェル
……ジェラルド様
 名前を呼ばれたこの国の王太子は、魔力を制御するためにかけているという眼鏡の鼻当てを軽く持ちあげた。
ジェラルド・デア・クレイトス
ジェラルド・デア・クレイトス
私の妃になるはずだった女性が罪を認めず逃げ出すなど、恥を知れ。……フェイリスがどれだけ胸を痛めているかと思うと、私もつらい
ジル・サーヴェル
ジル・サーヴェル
──相変わらず、妹思いなのですね
 戦場で無駄口など叩くべきではない。

 だが思わず嫌みを口にしてしまったジルを、ジェラルドは冷静に見返した。
ジェラルド・デア・クレイトス
ジェラルド・デア・クレイトス
当然だ。我が妹にまさるものなど、この世にはない
ジル・サーヴェル
ジル・サーヴェル
(黙れこの腐れシスコンが!!)
 そう叫ばなかったのは不敬罪が怖かったからではなく、ただおぞましかったからだ。

 そもそも、罪名が追加されても、処刑が決まっている身である。しかも冤罪ばかりで──いや、身に覚えがある罪状ならある。言うなれば、『私と私の世界一可愛い妹との仲を理解しなかった罪』だ。無理解罪とでも名づけてやりたい。

 吹雪の中、悠然と立っている金髪の王子はジルの婚約者だった。ジルが十歳のとき、初めて訪れた王都で第一王子ジェラルド・デア・クレイトスの十五歳の誕生日パーティーに出席したその日、初対面で求婚され、そういう仲になった。

 ジルの故郷であるサーヴェル辺境領は、神話の時代から何かと争いが絶えないラーヴェ帝国と接している。いずれくるラーヴェ帝国との争いを見越して血縁者を取りこもうという、政略的な求婚だったのかもしれない。それくらいならジルも了解していた。でもジェラルドは他人にも自分にも厳しく、真面目で、責任感のある、尊敬できる人物だった。

 何より、化け物じみたジルの魔力を認め、必要だと言ってくれたのだ。

 だから堂々と魔力を使い、戦場を駆けることもまったく苦にならなかった。普通の女の子とは違う青春でも、化け物だ戦場でしか笑わぬ冷血女だ男女だと嘲笑されても、ジェラルドという王子様が自分にいると思えば、引け目を感じなかった。

 戦功をたて軍神令嬢とよばれ、年頃の男子より女子に恋文をもらう十六歳になっても、まあいいかですましてこられたのだ。

 なのにジェラルドの正体は、妹と禁断の恋に励む変態だった。

 ジェラルドの溺愛する妹、フェイリス・デア・クレイトス第一王女はこれまでの人生をほとんど寝台ですごしている、病弱な少女だ。外にもほとんど出られず、ジルも指で数えるほどしか会ったことがない。

 だが一目見れば誰しもが魅了される、天使のような少女だった。ジェラルドの溺愛ぶりもしかたがないと頷いたものだ。妹の具合が悪いと聞けばジェラルドはジルの誕生日パーティーも婚約記念日もすべてすっぽかした。冗談まじりで不満をもらそうものなら、城中の人間に白い目で見られ、ジェラルド本人には手厳しく糾弾され、挨拶すらできないまま戦場に送り出される。優しい部下に慰められつつ、自分の狭量さを反省したものだった。

 だって思わないではないか、普通──婚約者の浮気相手が、実の妹だなんて。

 いや、厳密には浮気相手は自分のほうだった。自分との婚約は、最初から妹との禁断の恋をカモフラージュするためだったのだ。ジルは完全な道化だった。百年の恋も一気に冷める事実をつい最近、ジルは知った。もはや悲しみや怒りを通り越して笑うしかない。
ジル・サーヴェル
ジル・サーヴェル
(妹思いの、いい兄だとばかり……少しすぎたところがあるだけで……)
 だが、ジルがそうと知ったあとのジェラルドは、非情だった。

 まず、婚約を破棄された。願ったり叶ったりだったが、それだけではすまなかった。

 その翌日にはなぜか身に覚えのない罪で拘束され、その次の日には牢に放りこまれ、その次の日には裁判が終わっていて、その次の日には処刑が決まって、今日になっていた。ちなみに処刑は明日である。

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