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第2話

秘密 2
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2021/05/10 09:00
それから私は、浅草の観音堂の真うしろにはどんな町があったか想像して見たが、仲店なかみせの通りから宏大こうだいな朱塗りのお堂のいらかを望んだ時の有様ばかりが明瞭めいりょうに描かれ、その外の点はと頭に浮かばなかった。だんだん大人になって、世間が広くなるにしたがい、知人の家を訪ねたり、花見遊山ゆさんに出かけたり、東京市中はくまなく歩いたようであるが、いまだに子供の時分経験したような不思議な別世界へ、ハタリと行き逢うことがたびたびあった。
そう云う別世界こそ、身をかくすには究竟くっきょうであろうと思って、此処彼処ここかしこといろいろに捜し求めて見れば見る程、今迄通ったことのない区域がいたところに発見された。浅草橋と和泉いずみ橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。二長町にちょうまちの市村座へ行くのには、いつも電車通りからそばやの角を右へ曲ったが、あの芝居の前を真っ直ぐに柳盛座の方へ出る二三町ばかりの地面は、一度も蹈んだ覚えはなかった。昔の永代えいたい橋の右岸のたもとから、左の方の河岸かしはどんな工合になって居たか、どうもく判らなかった。その外八丁堀、越前堀、三味線堀しゃみせんぼり山谷さんや堀の界隈かいわいには、まだまだ知らない所が沢山あるらしかった。
松葉町のお寺の近傍は、そのうちでも一番奇妙な町であった。六区と吉原を鼻先に控えてちょいと横丁を一つ曲った所に、さびしい、すたれたような区域を作っているのが非常に私の気に入ってしまった。今迄自分の無二の親友であった「派手な贅沢ぜいたくなそうして平凡な東京」と云うやつにして、静かにその騒擾そうじょうを傍観しながら、こっそり身を隠して居られるのが、愉快でならなかった。
隠遁をした目的は、別段勉強をする為めではない。その頃私の神経は、刃のり切れたのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興もかなかった。微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを翫味がんみするのが、不可能になっていた。下町のいきと云われる茶屋の板前に感心して見たり、仁左衛門にざえもん鴈治郎がんじろうの技巧を賞美したり、べて在り来たりの都会の歓楽を受け入れるには、あまり心がすさんでいた。惰力の為めに面白くもない懶惰らんだな生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって、全然旧套きゅうとう擺脱はいだつした、物好きな、アーティフィシャルな、Mode of life を見出みいだして見たかったのである。
普通の刺戟しげきれて了った神経をふるおののかすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻的な空気の中に、棲息せいそくすることは出来ないであろうか。こう思って私の魂は遠くバビロンやアッシリヤの古代の伝説の世界にさ迷ったり、コナンドイルや涙香るいこうの探偵小説を想像したり、光線の熾烈しれつな熱帯地方の焦土と緑野を恋い慕ったり、腕白な少年時代のエクセントリックな悪戯あくぎあこがれたりした。