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第5話

秘密 5
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2021/05/31 09:00
雨曇りのしたうす暗い晩であった。千束せんぞく町、清住町きよすみちょう龍泉寺りゅうせんじ町―――あの辺一帯の溝の多い、淋しい街をしばらくさまよって見たが、交番の巡査も、通行人も、一向気が附かないようであった。甘皮あまかわを一枚張ったようにぱさぱさ乾いている顔の上を、夜風が冷やかにでて行く。口辺をおおうて居る頭巾のきれが、息の為めに熱く湿うるおって、歩くたびに長い縮緬の腰巻のすそは、じゃれるように脚へもつれる。から肋骨あばらの辺を堅くめ附けている丸帯と、骨盤の上をくくっている扱帯しごきの加減で、私の体の血管には、自然と女のような血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなって行くようであった。
友禅のそでかげから、お白粉を塗った手をつき出して見ると、強い頑丈がんじょうな線が闇の中に消えて、白くふっくらと柔かに浮き出ている。私は自分で自分の手の美しさにれとした。このような美しい手を、実際に持っている女と云う者が、うらやましく感じられた。芝居の弁天小僧のように、こう云う姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。………探偵小説や、犯罪小説の読者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の気分に髣髴ほうふつとした心持で、私は次第に人通りの多い、公園の六区の方へ歩みを運んだ。そうして、殺人とか、強盗とか、何か非常な残忍な悪事を働いた人間のように、自分を思い込むことが出来た。
十二階の前から、池のみぎわについて、オペラ館の四つ角へ出ると、イルミネーションとアーク燈の光が厚化粧をした私の顔にきらきらと照って、着物の色合いや縞目しまめがはッきりと読める。常盤座ときわざの前へ来た時、突き当たりの写真屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交って、立派に女と化けおおせた私の姿が映って居た。
こッてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云う秘密がことごとく隠されて、眼つきも口つきも女のように動き、女のように笑おうとする。甘いの匂いと、ささやくような衣摺きぬずれの音を立てて、私の前後を擦れ違う幾人の女の群も、皆私を同類と認めてあやしまない。そうしてその女達の中には、私の優雅な顔の作りと、古風な衣裳いしょうの好みとを、羨ましそうに見ている者もある。
いつも見馴れて居る公園の夜の騒擾そうじょうも、「秘密」を持って居る私の眼には、凡べてが新しかった。何処へ行っても、何を見ても、始めて接する物のように、珍しく奇妙であった。人間の瞳をあざむき、電燈の光を欺いて、濃艶のうえんな脂粉とちりめんの衣装の下に自分を潜ませながら、「秘密」のとばりを一枚隔てて眺める為めに、恐らく平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を施されるのであろう。
それから私は毎晩のようにこの仮装をつづけて、時とすると、宮戸座の立ち見や活動写真の見物の間へ、平気で割って入るようになった。寺へ帰るのは十二時近くであったが、座敷に上ると早速空気ランプをつけて、疲れた体の衣裳も解かず、毛氈の上へぐったりいやらしく寝崩れた儘、残り惜しそうに絢爛な着物の色を眺めたり、袖口をちゃらちゃらと振って見たりした。げかかったお白粉が肌理きめあらいたるんだ頬の皮へみ着いて居るのを、鏡に映して凝視して居ると、廃頽はいたいした快感が古い葡萄酒ぶどうしゅの酔いのように魂をそそった。地獄極楽の図を背景にして、けばけばしい長襦袢のまま、遊女の如くなよなよと蒲団ふとんの上へ腹這はらばって、例の奇怪な書物のページを夜更くる迄ひるがえすこともあった。次第に扮装ふんそううまくなり、大胆にもなって、物好きな聯想れんそうかもさせる為めに、匕首あいくちだの麻酔薬だのを、帯の間へはさんでは外出した。犯罪を行わずに、犯罪に付随して居る美しいロマンチックの匂いだけを、十分にいで見たかったのである。