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第8話

秘密 8
23
2021/06/21 09:00
それにしても明日の晩、素直に来てくれるであろうか。大分昔よりは年功を経ているらしい相手の力量を測らずに、あのような真似まねをして、かえって弱点を握られはしまいか。いろいろの不安と疑惧ぎぐさしはさまれながら私は寺へ帰った。
いつものように上着を脱いで、長襦袢一枚になろうとする時、ぱらりと頭巾の裏から四角にたたんだ小さい洋紙の切れが落ちた。
「Mr. S. K.」
と書き続けたインキのあとをすかして見ると、玉甲斐絹たまかいきのように光っている。正しく彼女の手であった。見物中、一二度小用に立ったようであったが、早くもその間に、返事をしたためて、人知れず私の襟元えりもとへさし込んだものと見える。
 思いがけなき所にて思いがけなき君の姿を見申そうろう。たとい装いを変え給うとも、三年このかた夢寐むびにも忘れぬ御面影おんおもかげを、いかで見逃し候べき。わらわは始めより頭巾の女の君なる事を承知つかまつり候。それにつけても相変わらず物好きなる君にておわせしことの可笑おかしさよ。妾に会わんとおおせらるるも多分はこの物好きのおん興じにやと心許こころもとなく存じ候えども、あまりのうれしさに兎角の分別もでず、唯仰せに従い明夜は必ず御待ち申すく候。ただし、妾に少々都合もあり、考えも有之候これありそうらえば、九時より九時半までの間に雷門かみなりもんまでお出で下されまじくや。其処そこにて当方より差し向けたるお迎いの車夫が、必ず君を見つけ出して拙宅へご案内致す可く候。君の御住所を秘し給うと同様に、妾も今の在り家を御知らせ致さぬ所存にて、車上の君に眼隠しをしてお連れ申すよう取りはからわせ候間、右御許し下されたくしこの一事を御承引下され候わずば、妾は永遠に君を見ることかなわず、これに過ぎたる悲しみは無之これなく候。
私はこの手紙を読んで行くうちに、自分がいつの間にか探偵小説中の人物となり終せて居るのを感じた。不思議な好奇心と恐怖とが、頭の中でうずを巻いた。女が自分の性癖をみ込んで居て、わざとこんな真似をするのかとも思われた。
明くる日の晩は素晴らしい大雨であった。私はすっかり服装を改めて、ついの大島の上にゴム引きの外套がいとうまとい、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、たきごとくたたきつける雨の中を戸外おもてへ出た。新堀のみぞが往来一円に溢れているので、私は足袋たびふところへ入れたが、びしょびしょにれた素足が家並みのランプに照らされて、ぴかぴか光って居た。おびただしい雨量が、天からざあざあと直瀉ちょくしゃする喧囂けんごうの中に、何もかも打ち消されて、ふだんにぎやかな広小路の通りも大概雨戸を締め切り、二三人の臀端折しりはしょりの男が、敗走した兵士のようにけ出して行く。電車が時々レールの上にまった水をほとばしらせて通る外は、ところどころの電柱や広告のあかりが、朦朧たる雨の空中をぼんやり照らしているばかりであった。
外套から、手首から、ひじの辺まで水だらけになって、漸く雷門へ来た私は、雨中にしょんぼり立ち止りながらアーク燈の光を透かして、四辺あたり見廻みまわしたが、一つも人影は見えない。何処どこかの暗い隅に隠れて、何者かが私の様子を窺っているのかも知れない。こう思って暫くたたずんで居ると、やがて吾妻橋の方の暗闇くらやみから、赤い提灯ちょうちんの火が一つ動き出して、がらがらがらと街鉄がいてつき石の上を駛走しそうして来た旧式な相乗りのくるまがぴたりと私の前で止まった。