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第9話

秘密 9
21
2021/06/28 09:00
車夫
旦那だんな、お乗んなすって下さい。
深い饅頭笠まんじゅうがさ雨合羽あまがっぱを着た車夫の声が、車軸しゃじくを流す雨の響きの中に消えたかと思うと、男はいきなり私の後へ廻って、羽二重はぶたえの布を素早く私の両眼の上へ二た廻り程巻きつけて、蟀谷こめかみの皮がよじれる程強くめ上げた。
車夫
さあ、お召しなさい。
こう云って男のざらざらした手が、私を掴んで、あわただしく俥の上へ乗せた。
しめっぽい匂いのするほろの上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑いもなく私の隣りには女が一人乗って居る。お白粉しろいの薫りと暖かい体温が、幌の名へ蒸すようにこもっていた。
かじを上げた俥は、方向をくらます為めに一つ所をくるくると二三度廻って走り出したが、右へ曲り、左へ折れ、どうかすると Labyrinth の中をうろついて居るようであった。時々電車通りへ出たり、小さな橋を渡ったりした。
長い間、そうして俥に揺られて居た。隣りに並んでいる女は勿論もちろんT女であろうが、黙って身じろぎもせずに腰かけている。多分私の眼隠めかくしが厳格に守られるかいなかを監督する為めに同乗して居るものらしい。しかし、私は他人の監督がなくても、決してこの眼かくしを取りはずす気はなかった。海の上で知り合いになった夢のような女、大雨の晩の幌の中、夜の都会の秘密、盲目、沈黙―――凡べての物が一つになって、渾然こんぜんたるミステリーのもやうちに私を投げ込んで了って居る。
やがて女は固く結んだ私の唇を分けて、口の中へ巻煙草をし込んだ。そうしてマッチを擦って火をつけてくれた。
一時間程って、ようやく俥はとまった。再びざらざらした男の手が私を導きながら狭そうな路次を二三間行くと、裏木戸のようなものをギーと開けて家の中へ連れて行った。
眼を塞がれながら一人座敷に取り残されて、暫くすわっていると、間もなくふすまの開く音がした。女は無言のまま、人魚のようにたいを崩して擦り寄りつつ、私のひざの上へ仰向きに上半身をもたせかけて、そうして両腕を私のうなじに廻して羽二重の結び目をはらりと解いた。
部屋は八畳位もあろう。普請ふしんと云い、装飾と云い、なかなか立派で、木柄きがらなども選んではあるが、丁度この女の身分が分らぬと同様に、待合とも、妾宅しょうたくとも、上流の堅気な住まいとも見極めがつかない。一方の縁側の外にはこんもりとした植え込みがあって、その向うは板塀いたべいに囲われている。唯これだけの眼界では、この家が東京のどの辺にあたるのか、大凡おおよその見当すらわからなかった。
よく来て下さいましたね。
こう云いながら、女は座敷の中央の四角な紫檀したんの机へ身を靠せかけて、白い両腕を二匹の生き物のように、だらりと卓上にわせた。襟のかかった渋いしまめしに腹合わせ帯をしめて、銀杏返いちょうがえしにって居る風情ふぜいの、昨夜と恐ろしく趣が変っているのに、私はず驚かされた。
あなたは、今夜あたしがこんな風をして居るのは可笑おかしいと思っていらッしゃるんでしょう。それでも人に身分を知らせないようにするには、こうやって毎日身なりを換えるより外に仕方がありませんからね。
卓上に伏せてある洋盃コップを起して、葡萄酒ぶどうしゅぎながら、こんな事を云う女の素振りは、思ったよりもしとやかに打ちしおれて居た。