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第11話

秘密 11
33
2021/07/12 09:00
その後しばらく、私は、あの晩女に見せられた不思議な街の光景を忘れることが出来なかった。燈火のともっている賑やかな狭い小路の突き当りに見えた印形屋の看板が、頭にはッきりと印象されて居た。何とかして、あの町の在りかを捜し出そうと苦心した揚句、私はようやく一策を案じ出した。
長い年月の間、毎夜のように相乗りをして引き擦り廻されて居るうちに、雷門で俥がくるくると一つ所を廻る度数や、右に折れ左に曲る回数まで、一定して来て、私はいつともなくその塩梅あんばいを覚え込んでしまった。或る朝、私は雷門の角へ立って眼をつぶりながら二三度ぐるぐると体を廻した後、この位だと思う時分に、俥と同じ位の速度で一方へ駆け出して見た。唯好い加減に時間を見はからって彼方此方かなたこなたの横町を折れ曲るより外の方法はなかったが、丁度この辺と思う所に、予想の如く、橋もあれば、電車通りもあって、確かにこの道に相違ないと思われた。
道は最初雷門から公園の外郭を廻って千束町に出て、龍泉寺町の細い通りを上野の方へ進んで行ったが、車坂下で更に左へ折れ、お徒町かちまちの往来を七八町も行くとやがて又左へ曲り始める。私は其処でハタとこの間の小路にぶつかった。
成る程正面に印形屋の看板が見える。
それを望みながら、秘密の潜んでいる巌窟がんくつの奥をきわめでもするように、つかつかと進んで行ったが、つきあたりの通りへ出ると、思いがけなくも、其処は毎晩夜店の出る下谷竹町の往来の続きであった。いつぞや小紋の縮緬ちりめんを買った古着屋の店も二三間先に見えて居る。不思議な小路は、三味線堀と仲お徒町の通りを横につないで居る街路であったが、どうも私は今迄其処を通った覚えがなかった。散々私を悩ました精美堂の看板の前に立って、私は暫くたたずんで居た。燦爛さんらんとした星の空をいただいて夢のような神秘な空気におおわれながら、赤い燈火をたたえて居る夜の趣とは全く異り、秋の日にかんかん照り附けられて乾涸ひからびて居る貧相な家並を見ると、何だか一時にがっかりして興が覚めて了った。
抑え難い好奇心に駆られ、犬が路上のにおいをぎつつ自分のみ家へ帰るように、私は又其処から見当をつけて走り出した。
道は再び浅草区へ這入はいって、小島町から右へ右へと進み、菅橋すがばしの近所で電車通りを越え、代地河岸を柳橋の方へ曲って、ついに両国の広小路へ出た。女が如何いかに方角を悟らせまいとして、大迂廻だいうかいをやっていたかが察せられる。薬研掘やげんぼり、久松町、浜町と来て蠣浜橋かきはまばしを渡った処で、急にその先が判らなくなった。
何んでも女のうちは、この辺の路次にあるらしかった。一時間ばかりかかって、私はその近所の狭い横町を出つ入りつした。
丁度道了権現どうりょうごんげんの向い側の、ぎっしり並んだ家と家との庇間ひあわいを分けて、ほとんど眼につかないような、細い、ささやかな小路のあるのを見つけ出した時、私は直覚的に女の家がその奥に潜んで居ることを知った。中へ這入って行くと右側の二三軒目の、見事な洗い出しの板塀に囲まれた二階の欄干から、松の葉越しに女は死人のような顔をして、じっと此方こちらを見おろして居た。
思わずあざけるようなひとみを挙げて、二階を仰ぎると、むし空惚そらとぼけて別人を装うものの如く、女はにこりともせずに私の姿をながめて居たが、別人を装うてもあやしまれぬくらい、その容貌ようぼうは夜の感じと異って居た。たッた一度、男のいを許して、眼かくしの布をゆるめたばかりに、秘密をあばかれた悔恨、失意の情が見る見る色に表われて、やがて静かに障子のかげへ隠れて了った。
女は芳野と云うその界隈かいわいでの物持の後家であった。あの印形屋の看板と同じように、べての謎は解かれて了った。私はそれきりその女を捨てた。
二三日過ぎてから、急に私は寺を引き払って田端たばたの方へ移転した。私の心はだんだん「秘密」などと云う手ぬるい淡い快感に満足しなくなって、もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽を求めるように傾いて行った。