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第4話

秘密 4
60
2021/05/24 09:00
夜の九時頃、寺の者が大概寝静まって了うとウヰスキーの角壜かくびんあおって酔いを買った後、勝手に縁側の雨戸を引き外し、墓地のがきを乗り越えて散歩に出かけた。成るく人目にかからぬように毎晩服装を取り換えて公園の雑沓ざっとうの中をくぐって歩いたり、古道具屋や古本屋の店先をあさまわったりした。頬冠ほおかむりに唐桟とうざん半纏はんてんを引っ掛け、綺麗きれいみがいた素足へ爪紅つまべにをさして雪駄せった穿くこともあった。金縁の色眼鏡に二重廻にじゅうまわしのえりを立てて出ることもあった。ひげ、ほくろ、あざと、いろいろに面体めんていを換えるのを面白がったが、或る晩、三味線堀の古着屋で、藍地あいじに大小あられの小紋を散らした女物のあわせが眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなくなった。
一体私は衣服反物に対して、単に色合が好いとかがらいきだとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫い附きたくなって、丁度恋人のはだの色をながめるような快感の高潮に達することが屡々であった。殊に私の大好きなお召や縮緬ちりめんを、世間はばからず、ほしいままに着飾ることの出来る女の境遇を、ねたましく思うことさえあった。

あの古着屋の店にだらりと生々しく下って居る小紋縮緬の袷―――あのしっとりした、重い冷たいきれねばつくように肉体を包む時の心好さを思うと、私は思わず戦慄せんりつした。あの着物を着て、女の姿で往来を歩いて見たい。………こう思って、私は一も二もなくそれを買う気になり、ついでに友禅ゆうぜん長襦袢ながじゅばんや、黒縮緬の羽織迄も取りそろえた。
大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打ってつけであった。夜がけてがらんとした寺中がひっそりした時分、私はひそかに鏡台に向って化粧を始めた。黄色い生地きじの鼻柱へずベットリと練りお白粉しろいをなすり着けた瞬間の容貌ようぼうは、少しグロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍なく押しひろげると、思ったよりもが好く、甘いにおいのひやひやとした露が、毛孔けあなみ入る皮膚のよろこびは、格別であった。紅やを塗るに随って、石膏せっこうの如く唯徒らに真っ白であった私の顔が、溌剌はつらつとした生色ある女の相に変って行く面白さ。文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、はるかに興味の多いことを知った。
長襦袢、半襟、腰巻、それからチュッチュッと鳴る紅絹裏もみうらの袂、―――私の肉体は、凡べて普通の女の皮膚が味わうと同等の触感を与えられ、襟足から手頸てくびまで白く塗って、銀杏返いちょうがえしのかつらの上にお高祖頭巾こそずきんかぶり、思い切って往来の夜道へ紛れ込んで見た。