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第6話

秘密 6
49
2021/06/07 09:00
そうして、一週間ばかり過ぎた或る晩の事、私は図らずも不思議な因縁から、もッと奇怪なもッと物好きな、そうしてもッと神秘な事件の端緒に出会でくわした。
その晩私は、いつもよりも多量にウヰスキーを呷って、三友館の二階の貴賓席に上り込んで居た。何でももう十時近くであったろう、恐ろしくんでいる場内は、霧のような濁った空気にたされて、黒く、もくもくとかたまって蠢動しゅんどうしている群衆の生温かい人いきれが、顔のお白粉を腐らせるように漂って居た。暗中にシャキシャキきしみながら目まぐるしく展開して行く映画の光線の、グリグリと瞳を刺す度毎たびごとに、私の酔った頭はれるように痛んだ。時々映画が消えてぱッと電燈がつくと、渓底たにそこから沸き上る雲のように、階下の群衆の頭の上を浮動して居る煙草たばこけむりの間を透かして、私は真深いお高祖頭巾の蔭から、場内にあふれて居る人々の顔を見廻した。そうして私の旧式な頭巾の姿を珍しそうにうかがって居る男や、粋な着附けの色合を物欲しそうに盗みている女の多いのを、心ひそかに得意として居た。見物の女のうちで、いでたちの異様な点から、様子の婀娜あだっぽい点から、乃至ないし器量の点からも、私ほど人の眼に着いた者はないらしかった。
始めは誰も居なかったはずの貴賓席の私のそば椅子いすが、いつの間にふさがったのかくは知らないが、二三度目に再び電燈がともされた時、私の左隣りに二人の男女が腰をかけて居るのに気が附いた。
女は二十二三と見えるが、その実六七にもなるであろう。髪を三つ輪に結って、総身をお召の空色のマントに包み、くッきりと水のしたたるような鮮やかな美貌びぼうばかりを、これ見よがしにあらわにして居る。芸者とも令嬢とも判断のつき兼ねる所はあるが、連れの紳士の態度から推して、堅儀かたぎの細君ではないらしい。
……… Arrested at last. ………
と、女は小声で、フィルムの上に現れた説明書を読み上げて、土耳古トルコ巻の M. C. C. のかおりの高い烟を私の顔に吹き附けながら、指にめて居る宝石よりも鋭く輝く大きい瞳を、闇の中できらりと私の方へ注いだ。
あでやかな姿に似合わぬ太棹ふとざおの師匠のような皺嗄しわがれた声、―――その声は紛れもない、私が二三年前に上海シャンハイへ旅行する航海の途中、ふとした事から汽船の中で暫く関係を結んで居たT女であった。
女はそのころから、商売人とも素人しろうととも区別のつかない素振りや服装を持って居たように覚えて居る。船中に同伴して居た男と、今夜の男とはまるで風采ふうさいも容貌も変っているが、多分はこの二人の男の間を連結する無数の男が女の過去の生涯しょうがいを鎖のように貫いて居るのであろう。かくその婦人が、始終一人の男から他の男へと、胡蝶こちょうのように飛んで歩く種類の女であることは確かであった。二年前に船で馴染なじみになった時、二人はいろいろの事情から本当の氏名も名乗り合わず、境遇も住所も知らせずにいるうちに上海へ着いた。そうして私は自分に恋い憧れている女を好い加減に欺き、こッそり跡をくらましてしまった。以来太平洋上の夢の中なる女とばかり思って居たその人の姿を、こんなところで見ようとは全く意外である。あの時分やや小太りに肥えて居た女は、神々こうごうしいまでせて、すッきりとして、睫毛まつげの長い潤味うるみを持った円いまなこが、ぬぐうがごとくにえ返り、男を男とも思わぬような凜々りりしい権威さえそなえている。触るるものにくれないの血が濁染にじむかと疑われた生々しいくちびると、耳朶みみたぶの隠れそうな長いぎわばかりは昔に変らないが、鼻は以前よりも少しけわしい位に高く見えた。