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第10話

秘密 10
17
2021/07/05 09:00
でもく覚えて居て下さいましたね。上海でお別れしてから、いろいろの男と苦労もして見ましたが、妙にあなたの事を忘れることが出来ませんでした。もう今度こそは私を棄てないで下さいまし。身分も境遇も判らない、夢のような女だと思って、いつまでもお附き合いなすって下さい。
女の語る一言一句が、遠い国の歌のしらべのように、哀韻あいいんを含んで私の胸に響いた。昨夜のような派手な勝ち気な悧発りはつな女が、どうしてこう云う憂鬱ゆううつな、殊勝な姿を見せることが出来るのであろう。さながら万事を打ち捨てて、私の前に魂を投げ出しているようであった。
「夢の中の女」「秘密の女」朦朧もうろうとした、現実とも幻覚とも区別の附かない Love adventure の面白さに、私はそれから毎晩のように女のもとに通い、夜半よなかの二時頃迄遊んでは、また眼かくしをして、雷門まで送り返された。一と月も二た月も、お互に所を知らず、名を知らずに会見していた。女の境遇や住宅をさぐり出そうと云う気は少しもなかったが、だんだん時日が立つに従い、私は妙な好奇心から、自分を乗せた俥が果して東京の何方どっちの方面に二人を運んで行くのか、自分の今眼を塞がれて通って居る処は、浅草からの辺にあたって居るのか、唯それだけを是非とも知って見たくなった。三十分も一時間も、時とすると一時間半もがらがらと市街を走ってから、轅を下ろす女の家は、案外雷門の近くにあるのかも知れない。私は毎夜俥に揺す振られながら、此処ここ彼処あそこかと心の中に憶測おくそくめぐらす事を禁じ得なかった。
る晩、私はとうとうたまらなくなって、
一寸ちょっとでも好いから、この眼かくしを取ってくれ。
と俥の上で女にせがんだ。
いけません、いけません。
と、女はあわてて、私の両手をしッかり抑えて、その上へ顔を押しあてた。
何卒どうぞそんな我が儘を云わないで下さい。此処の往来はあたしの秘密です。この秘密を知られればあたしはあなたに捨てられるかも知れません。
どうして私に捨てられるのだ。
そうなれば、あたしはもう『夢の中の女』ではありません。あなたは私を恋して居るよりも、夢の中の女を恋して居るのですもの。
いろいろに言葉を尽して頼んだが、私は何と云っても聴き入れなかった。
仕方がない、そんなら見せて上げましょう。………その代り一寸ですよ。
女は嘆息するように云って、力なく眼かくしの布を取りながら、
此処が何処どこだか判りますか。
と、心許こころもとない顔つきをした。
美しく晴れ渡った空の地色は、妙に黒ずんで星が一面にきらきらと輝き、白いかすみのような天の川が果てから果てへ流れている。狭い道路の両側には商店が軒を並べて、燈火の光が賑やかに町を照らしていた。
不思議な事には、可なり繁華な通りであるらしいのに、私はそれが何処の街であるか、さっぱり見当が附かなかった。俥はどんどんその通りを走って、やがて一二町先の突き当りの正面に、精美堂と大きく書いた印形屋いんぎょうやの看板が見え出した。
私が看板の横に書いてある細い文字の町名番地を、俥の上で遠くからのぞき込むようにすると、女はたちまち気が附いたか、
あれッ
と云って、再び私の眼をふさいでしまった。
賑やかな商店の多い小路で突きあたりに印形屋の看板の見える街、―――どう考えて見ても、私は今迄通ったことのない往来の一つに違いないと思った。子供時代に経験したようななぞの世界の感じに、再び私はいざなわれた。
あなた、あの看板の字が読めましたか。
いや読めなかった。一体此処は何処なのだか私にはまるで判らない。私はお前の生活に就いては三年前の太平洋の波の上の事ばかりしか知らないのだ。私はお前に誘惑されて、何だか遠い海の向うの、幻の国へれて来られたように思われる。
私がこう答えると、女はしみじみとした悲しい声で、こんな事を云った。
後生だからいつまでもそう云う気持で居て下さい。幻の国に住む、夢の中の女だと思って居て下さい。もう二度と再び、今夜のような我が儘を云わないで下さい。
女の眼からは、涙が流れて居るらしかった。