女は果たして私に気が附いて居るのであろうか。どうも判然と確かめることが出来なかった。明りがつくと連れの男にひそひそ戯れて居る様子は、傍に居る私を普通の女と蔑んで、別段心にかけて居ないようでもあった。実際その女の隣りに居ると、私は今迄得意であった自分の扮装を卑しまない訳には行かなかった。表情の自由な、如何にも生き生きとした妖女の魅力に気圧されて、技巧を尽した化粧も着附けも、醜く浅ましい化物のような気がした。女らしいと云う点からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のように果敢なく萎れて了うのであった。
朦々と立ち罩めた場内の汚れた空気の中に、曇りのない鮮明な輪郭をくッきりと浮かばせて、マントの蔭からしなやかな手をちらちらと、魚のように泳がせているあでやかさ。男と対談する間にも時々夢のような瞳を上げて、天井を仰いだり、眉根を寄せて群衆を見下ろしたり、真っ白な歯並みを見せて微笑んだり、その度毎に全く別趣の表情が、溢れんばかりに湛えられる。如何なる意味をも鮮やかに表し得る黒い大きい瞳は、場内の二つの宝石のように、遠い階下の隅からも認められる。顔面の凡べての道具が単に物を見たり、嗅いだり、聞いたり、語ったりする機関としては、あまりに余情に富み過ぎて、人間の顔と云うよりも、男の心を誘惑する甘味ある餌食であった。
もう場内の視線は、一つも私の方に注がれて居なかった。愚かにも、私は自分の人気を奪い去ったその女の美貌に対して、嫉妬と憤怒を感じ始めた。嘗ては自分が弄んで恣に棄ててしまった女の容貌の魅力に、忽ち光を消されて蹈み附けられて行く口惜しさ。事に依ると女は私を認めて居ながら、わざと皮肉な復讐をして居るのではないであろうか。
私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第々々に恋慕の情に変って行くのを覚えた。女としての競争に敗れた私は、今一度男として彼女を征服して勝ち誇ってやりたい。こう思うと、抑え難い欲望に駆られてしなやかな女の体を、いきなりむずと鷲掴みにして、揺す振って見たくもなった。
君は予の誰なるかを知り給うや。今夜久しぶりに君を見て、予は再び君を恋し始めたり。今一度、予と握手し給うお心はなきか。明晩もこの席に来て、予を待ち給うお心はなきか。予は予の住所を何人にも告げ知らす事を好まねば、唯願わくは明日の今頃、この席に来て予を待ち給え。
闇に紛れて私は帯の間から半紙と鉛筆を取出し、こんな走り書きをしたものをひそかに女の袂へ投げ込んだ、そうして、又じッと先方の様子を窺っていた。
十一時頃、活動写真の終るまでは女は静かに見物していた。観客が総立ちになってどやどやと場外へ崩れ出す混雑の際、女はもう一度、私の耳元で、
と囁きながら、前よりも自信のある大胆な凝視を、私の顔に暫く注いで、やがて男と一緒に人ごみの中へ隠れてしまった。
女はいつの間にか自分を見附け出して居たのだ。こう思って私は竦然とした。