あの日からあなたの名字先輩を見掛けることはあっても、人だかりで声をかけようにもかけれない。
そもそも3年生で新体操のエースと1年生で弓道の俺とは、月とすっぽんというか、雲の上の人というか。
そう簡単には話せそうになかった。
そんな日々を過ごしていたら、夜になって寮の管理人さんがやってきた。
同級生の猫田は彼女の家に住むとか言って少し前に出ていったから、今は3人部屋に俺と兎原だけしかいない。
管理人さんは、東棟の寮を工事するから終わるまでの間、1人空いてる俺たちの部屋に入れてあげてほしいと伝えに来たらしい。
快諾すると、新しく同居人になる人物は思いもよらない人だった。
あの、表田裏道だ。
あなたの名字先輩と同じく雲の上の存在だと思っていた人物は、今目の前にいる。
まさかこんな所で一緒になるとは。
とりあえず自己紹介。
部屋に荷物を入れてもらい、学園のスターとの短い共同生活が始まった。
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会話が無い。
というか何を話せば良いのかわからない。
きっと兎原もそうだろう。
先輩、しかも学園のスターでエース相手には、あのヘラヘラした態度も出来ないだろう。
とりあえず、今日はもう休むか。
猫田がいた頃とは全く違う3人部屋になったものだ。
けれど東棟の工事が終わるまでだから、短い期間しかいない。
そう気にしすぎることではないだろうと思いながら、俺は眠りについた。
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弓道場
梅雨も終わり、もう初夏だ。
にしても暑い。
半分屋内の練習場もかなり蒸し暑くなってきた。
もう練習を上がろうとしていた俺に、突然先輩たちが話しかけてきた。
前に兎原が聞いたらしく、先輩たち同様兎原も驚きを隠せないようだった。
ファンクラブがあるくらいの人なら、確かに彼女とかいても不思議じゃないが…なんかあの生活風景を見ると人に興味ない感じだからな。
きっと告白されてもスッパリ断っているのだろう。
噂話なんだろうが、ここまで本人たちがいないところで話が飛躍してるとは。
有名人はつくづく大変だな。
何か、盛り上がっている。
俺は練習道具を片付けてさっさと退散することにした。
あなたの名字先輩は、大丈夫だろうか。
あれから弓道場の周りでは見掛けていない。
嫌がらせが無くなった…とは言いきれないが、少し落ち着いたのだろうか。
寮へ帰る前に自販機で何か買おう。
暑くて喉が渇いたから、俺は近くの自販機に向かった。
誰かいる。
自販機の前でずっと立っているその人は、
あなたの名字先輩だった。
珍しく人だかりもなく一人。
自販機の前でぼーっとした様子だった。
声をかけたらハッとした様子で俺の方に視線が向いた。
そう言ってにこっと笑った先輩は、一人で自販機を見つめていた人とは思えないほど別人に見えた。
ぺこりとお辞儀する先輩。
たまに敬語が混じる、あの日と同じだ。
言葉を遮ってあなたの名字先輩は自販機の前で仁王立ちする。
威厳とかそういうの、無いな…むしろ可愛い仁王立ちだ。
またにぱっと笑う先輩。
本当に表情がコロコロと変わって、見ていて面白い。
指差したのは特価価格の100円の炭酸ジュース。
奢られるなら出来る限り安いものにしておきたい。
バレていた。
あなたの名字先輩が指差したのは、いつも俺が買っているジュース。
何故知ってるんだ…。
いつの間にか観察されていたのか。
全然気付かなかった。
そして好みのジュースを把握されていたとは。
先輩はそう言いながら、自販機に小銭を入れてリサーチ済みの俺が好きなジュースのボタンを押していた。
ガコンッ
自販機の取り出し口ジュースが落ちる。
先輩は取り出して俺に渡してきた。
俺は、
先輩の一つ一つの所作が美しすぎて見とれていた。
ジュースを受けとる。
練習終わりの暑い手に、ひんやりとした缶ジュースの冷たさが心地良い。
あなたの名字先輩も何か買っているみたいだ。
……え、青汁?
この自販機に何故ずっと青汁があるのか不思議だった。
買っている人を見たことがなかったから。
でも品替えされた時も青汁は残っていた。
どこに需要があるのだろうと思っていたのだが…。
需要はあったみたいだ。
しかもかなり常連らしい。
そう言ってご機嫌そうに近くのベンチに座るあなたの名字先輩。
ここに座れと言うことだろうか。
ベンチをべしべしと叩いている。
成績優秀で人当たりも良いこの人からの意外な言葉に素直に驚いた。
何でもそつなくこなす、器用な人だと思っていたから。
あんまりだと思う。
その人の一方的な憧れやイメージをあなたの名字先輩に抱くのは良いけれど、それを本人に押し付けたり違うからとガッカリしたなんて言葉を言うのはひどすぎる。
確かに話をしていると、噂で聞いていたイメージとは全く違う。
でも、それがあなたの名字先輩という人なんだ。
それを否定するのはあんまりだ。
突然あなたの名字先輩は真面目な声で俺に問いかけてきた。
ガッカリなんて、していない。
確かに見た目の綺麗さと飲み物のギャップはあるけれど…。
きょとんとするあなたの名字先輩。
ホントに表情がコロコロ変わる人だ。
しまった。
好きってそういう意味じゃない。
人間的な意味だ。
にぱっとあなたの名字先輩が笑う。
変な捉え方はされていないみたいで安心した。
けど、3年も学校にいるのに俺で2人目…。
誰だろう。
素のあなたの名字先輩を良いと言う人。
ずいっとあなたの名字先輩が俺の顔を覗き込む。
近くで見ると本当に美人だな…。
少し距離を取る。
さすがに良い意味で心臓に悪い。
そう言って缶の青汁を飲み干すあなたの名字先輩。
またにぱっと笑う。
すくっと立ち上がり眩しい程の笑顔で振り返ったあなたの名字先輩は、本当に綺麗で可愛かった。
あの時……。
そうだ、あの日以来あなたの名字先輩は嫌がらせをされていないか聞きたかったんだ。
こんなに笑ってる人に聞くのは心が痛い。
けど、心配だ。
今日話をしてくれたあなたの名字先輩を目の前にすると、あの時より不安になる。
あなたの名字先輩の表情が少し曇った。
やっぱりまだ続いているのか…。
気丈に振る舞ってくれているのだろうか。
さっきとは違う、無理に作った笑顔が痛々しかった。
いらない、余計なお節介だと思う。
だけど理不尽に嫌がらせをされて、またあの日のように一人で何か探したりしている辛そうなあなたの名字先輩をもう見たくなかった。
この人には笑顔が似合うと思ったから。
諦めたような、悲しい作り笑いをするあなたの名字先輩。
俺に何が出来るのか、いや、何も出来ない。
学年も違えば種目も違う。
本当に独りよがりなお節介をしているだけなんだ。
返す言葉が見つからずに黙っている俺に、あなたの名字先輩は笑ってくれた。
優しく笑っていた。
どうしてそんな優しい言葉が出てくるのだろうか。
理不尽な思いをし続けて辛い筈なのに、相手を責めたりする言葉も言わない。
不満も言わない。
もしかしてあなたの名字先輩は、全てを一人で背負っているのか…?
大会の成績に対する周囲からの期待やプレッシャーも、噂話をされている事も、嫌がらせを受けていることも。
誰にも言わず、抱えているのか…?
そんなのは、
俺の言葉を遮ったのは、
あなたの名字先輩と同じ、学校のスターでエースで俺と同室になった
表田裏道だった。
くるっと俺の方を向いたあなたの名字先輩。
そう言ってあなたの名字先輩は風のように走って行ってしまった。
足速いな…。
そして自販機前のベンチに残されたのは、俺と同室になった表田裏道…さん。
部屋でもあまり会話しないから、案の定この場でも沈黙が生まれる。
何て言うべきだ…?
それじゃあ俺も失礼しますで良いのか…?
この人の表情はぶっちゃけ読めない。
何考えてるのかもわからない。
同じエースでもあなたの名字先輩とは真逆だ。
そして俺は、
この人が苦手だ。
沈黙を破ったのは表田先輩だった。
嘘はついていない。
ただこの人があなたの名字先輩が嫌がらせを受けていると知っているのかわからない。
だから余計なことは言わない方が良いと思った。
何だこの人は。
同室の名前も覚えていないのか…。
そこそこの期間は一緒に生活してるのに。
何を言ってるんだこの人は。
意味が全くわからない。
見てたのか。
いつから見てたんだ…。
この人は、
あなたの名字先輩が不器用なのを知っている。
何もかもを一人で背負い込んでることも知っている。
「きっと熊谷くんならわかりますよ。」
あなたの名字先輩が言っていた、
素の自分を好きだと、それで良いと
唯一言ってくれた人は、
きっとこの人だ。
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編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。