私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色の虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以て、次から次へと湧き上って来るのです。あれを幻というのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。
そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。それは、夢の様に荒唐無稽で、非常に不気味な事柄でした。でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。
最初は、ただただ、私の丹誠を籠めた美しい椅子を、手離し度くない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい、そんな単純な願いでした。それが、うつらうつらと妄想の翼を拡げて居ります内に、いつの間にやら、その日頃私の頭に醗酵して居りました、ある恐ろしい考えと、結びついて了ったのでございます。そして、私はまあ、何という気違いでございましょう。その奇怪極まる妄想を、実際に行て見ようと思い立ったのでありました。
私は大急ぎで、四つの内で一番よく出来たと思う肘掛椅子を、バラバラに毀してしまいました。そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するに、都合のよい様に造り直しました。
それは、極く大型のアームチェーアですから、掛ける部分は、床にすれすれまで皮で張りつめてありますし、其外、凭れも肘掛けも、非常に部厚に出来ていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決して外から分らない程の、共通した、大きな空洞があるのです。無論、そこには、巌丈な木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに、適当な細工を施して、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、丁度椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられる程の、余裕を作ったのでございます。
そうした細工は、お手のものですから、十分手際よく、便利に仕上げました。例えば、呼吸をしたり外部の物音を聞く為に皮の一部に、外からは少しも分らぬ様な隙間を拵えたり、凭れの内部の、丁度頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵出来る様にしたり、ここへ水筒と、軍隊用の堅パンとを詰め込みました。ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり、その外様々の考案を廻らして、食料さえあれば、その中に、二日三日這入りつづけていても、決して不便を感じない様にしつらえました。謂わば、その椅子が、人間一人の部屋になった訳でございます。
私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口の蓋を開けて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。それは、実に変てこな気持でございました。まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入った様な、不思議な感じが致します。考えて見れば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ簑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。