第8話

人間椅子 8
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2021/07/13 04:00
 中には、一ヶ月も二ヶ月も、そこを住居すまいのようにして、泊りつづけている人もありましたけれど、元来ホテルのことですから絶えず客の出入りがあります。したがって私の奇妙な恋も、時と共に相手が変って行くのを、どうすることも出来ませんでした。そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、普通の場合の様に、その容貌によってではなく、主として身体の恰好によって、私の心に刻みつけられているのでございます。
 あるものは、仔馬こうまの様に精悍せいかんで、すらりと引き締った肉体を持ち、あるものは、蛇の様に妖艶ようえんで、クネクネと自在に動く肉体を持ち、あるものは、ゴムまりの様に肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、又あるものは、ギリシャの彫刻の様に、ガッシリと力強く、円満に発達した肉体を持って居りました。その外、どの女の肉体にも、一人一人、それぞれの特徴があり魅力があったのでございます。
 そうして、女から女へと移って行く間に、私は又、それとは別な、不思議な経験をも味いました。
 その一つは、ある時、欧洲のある強国の大使が(日本人のボーイの噂話によって知ったのですが)其偉大な体躯を、私の膝の上にのせたことでございます。それは、政治家としてよりも、世界的な詩人として、一層よく知られていた人ですが、それ丈けに、私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくする程も、誇らしく思われたのでございます。彼は私の上で、二三人の同国人を相手に、十分ばかり話をすると、そのまま立去たちさって了いました。無論、何を云っていたのか、私にはさっぱり分りませんけれど、ジェステュアをする度に、ムクムクと動く、常人よりも暖いかと思われる肉体の、くすぐる様な感触が、私に一種名状すべからざる刺戟を、与えたのでございます。
 その時、私はふとこんなことを想像しました。若し! この革のうしろから、鋭いナイフで、彼の心臓を目がけて、グサリと一突きしたなら、どんな結果を惹起ひきおこすであろう。無論、それは彼に再び起つことの出来ぬ致命傷を与えるに相違ない。彼の本国はもとより、日本の政治界は、その為に、どんな大騒ぎを演じることであろう。新聞は、どんな激情的な記事を掲げることであろう。それは、日本と彼の本国との外交関係にも、大きな影響を与えようし、又芸術の立場から見ても、彼の死は世界の一大損失に相違ない。そんな大事件が、自分の一挙手によって、易々やすやすと実現出来るのだ。それを思うと、私は、不思議な得意を感じないではいられませんでした。
 もう一つは、有名なある国のダンサーが来朝した時、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、私の椅子に腰かけたことでございます。その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私に、つて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えて呉れました。私はそのあまりの美しさに卑しい考えなどは起すひまもなく、ただもう、芸術品に対する時の様な、敬虔けいけんな気持で、彼女を讃美したことでございます。
 その外、私はまだ色々と、珍しい、不思議な、或は気味悪い、数々の経験を致しましたが、それらを、ここに細叙さいじょすることは、この手紙の目的でありませんし、それに大分だいぶ長くなりましたから、急いで、肝心の点にお話を進めることに致しましょう。

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