前の話
一覧へ
次の話

第1話

生徒の名前くらい覚えててください
15,087
2019/06/02 04:09
【教室】
紫崎
紫崎
今日の授業は終わりだ。
各自、復習を怠らないように
2−Aの教室。
授業を受ける生徒達に、物理教師の紫崎しばさきもといが告げる。
彼が口を噤んだ途端、終業のチャイムが鳴り始めた。
紫崎はいつだって時間に正確なのだ。
莉の香りのかは席から立ち上がり、教室から出てゆく彼の後を追った。
莉の香
莉の香
紫崎先生!
質問があります
紫崎は軽く瞳をめぐらせたのち、莉の香に尋ねてくる。
紫崎
紫崎
お前は?
莉の香
莉の香
白沢しらさわです。白沢莉の香
紫崎
紫崎
……それで、質問とは
莉の香
莉の香
ここの、反発係数について
なんですけど……
莉の香は開いて持っていたノートを指し示した。
紫崎はノートを一瞥し、すぐさま指摘する。
紫崎
紫崎
反発係数が1を超えることはないぞ
莉の香
莉の香
……ですよね。でもどうしても……
莉の香
莉の香
って先生!
きびすを返し、立ち去ろうとする紫崎を呼ぶ。
だが。
紫崎
紫崎
そのくらい自分で考えろ
莉の香
莉の香
え……ちょ
紫崎
紫崎
仕事がある。俺は行くぞ
莉の香
莉の香
先生!
莉の香
莉の香
(……行っちゃった……)
奈々
奈々
紫崎先生、塩対応だよねぇ〜
クラスメイトで友人の深山みやま奈々ななが、莉の香に声をかけた。
莉の香
莉の香
奈々ちゃん
莉の香
莉の香
教師は教えるのも仕事なのに……
莉の香が不満げにつぶやくと、奈々は顎に指を当ててうなった。
奈々
奈々
うーん、そういえば……
奈々
奈々
先生はたしかに塩対応だけど、
質問にはいつも、答えてくれるのにねぇ
莉の香
莉の香
そうなの?
奈々
奈々
何か、急いでたんじゃない?
奈々
奈々
でも莉のちゃんが質問なんて
珍しいんだから、教えてくれても
いいのにね
莉の香
莉の香
……
莉の香
莉の香
(そもそも、私の名前覚えてない
みたいだけど)
奈々
奈々
莉のちゃん、次、体育だよ!
早く着替えなきゃ
莉の香は釈然としない思いを抱えつつ、
次の授業の準備を始めたのだった。
* * * * * *

【自宅マンション】
莉の香
莉の香
は!?
お見合い!?!?
ゆり香
ゆり香
莉のちゃん……!
お願いだから……!
仕事から帰宅するなり、母親のゆり香が
莉の香に向かっててのひらを合わせ、懇願する。
莉の香
莉の香
私、まだ高校生だよ!?
ゆり香
ゆり香
だから……ママの代わりに……っ
ゆり香は左右の指を胸の前で組み合わせ、潤んだ瞳で莉の香を見つめてくる。
莉の香の黒髪とは正反対の、ゆるくウェーブがかかった栗色の髪。
どこをとっても、17歳の娘をもつ母親には見えない。
莉の香
莉の香
代わりって、一体どういうこと?
ゆり香
ゆり香
取引先にどうしてもって、
お見合いを進められて……
莉の香
莉の香
いいんじゃない?
私は反対しないよ?
ゆり香
ゆり香
嫌よ! 相手、27歳なのよ!?
こんなオバサン、恥ずかしい
じゃない!
莉の香
莉の香
……ママ、私の姉か友達に
間違えられることだって
あるじゃん
莉の香
莉の香
ぜんぜん大丈夫だよ
ゆり香
ゆり香
嫌ぁ〜〜
ゆり香
ゆり香
莉のちゃんお願い、
代わりに行ってきて!
莉の香
莉の香
断るならママが行けばいいでしょ
莉の香
莉の香
っていうか私が
ママの振りをするの?

ぜったい無理無理!
ゆり香
ゆり香
髪は違うけど、
顔立ちは似てるじゃない
ゆり香
ゆり香
髪を巻いて、お化粧すれば
変わるわよ?
莉の香
莉の香
とにかく! 私は嫌だからね!?
莉の香
莉の香
ママもそんなに嫌なら、
ちゃんとお見合いを断ること!
ゆり香
ゆり香
うう……っ
* * * * * *

【数日後】
莉の香
莉の香
ママ、どこか行くの?
休日にもかかわらず、鏡台に向かいきっちりとメイクをするゆり香に、莉の香は声をかけた。
ゆり香
ゆり香
言ったじゃない、お見合いよ……
どこか顔色の冴えないゆり香は、力の入らない声で答える。
莉の香
莉の香
断らなかったの!?
ゆり香
ゆり香
断れないのよ……
得意先だから……
ゆり香はこう見えて、小さな企業の役員なのだ。
莉の香
莉の香
……
莉の香は何も言うことができず、ただ沈黙で返す。
父親が亡くなって、ゆり香は女手一つで莉の香を育ててくれた。
年に似合わないゆるふわな母親ではあるが、相応の苦労をしていることは理解しているつもりだ。
ゆり香
ゆり香
……う……っ
莉の香
莉の香
? ママ?
ゆり香が突然呻いて、メイクブラシを取り落とした。
ゆり香
ゆり香
お腹……痛……
莉の香
莉の香
ママ!
ゆり香の顔色は、ファンデーションを塗った上からもわかるくらいに青ざめている。
そしてそのまま椅子から崩れ落ち、お腹を押さえて床にうずくまった。
莉の香
莉の香
ママ! ママ! しっかりして!!
今、救急車呼ぶからね……!
額に脂汗を流し苦しむゆり香のただごとではない様子に、莉の香は救急車を呼ぶべくスマホに手を伸ばしたのだった。

プリ小説オーディオドラマ