帰って事務所の扉を開けると、たくさんの犬達に迎えられた。どうも人懐こい子達のようで、出会ったばかりのアリスにもしっぽを振ってくれる。
結局、怒涛の勢いで流されるふうにここで働くことが決定してしまったわけだ。が、やはり学校から近い場所に住み込みで働けるのは有難いため、この場は素直に喜ぶべきなのだろう。
そのとき、アリスの台詞を遮るように電話が鳴り響いた。陽道寺が取る。
彼は受話器から顔を離し、影宮を見た。
影宮の表情が、あからさまに硬くなる。彼はぎこちなく陽道寺から受話器を受け取った。
電話が切れたのか、影宮は受話器を呆然とした顔で見つめる。そうして、突如目付きを鋭くしたかと思うと、アリスを睨んで指差した。
影宮はアリスに向き直る。
鮮やかに謎を解き、駄菓子をおごってくれた影宮に対して上昇していた好感度が、アリスの中で急下降していった。
こうして、アリスは甘田の運転する車に乗って、図書館まで行く運びとなったのだった。しかし、図書館の貸し出しには冊数制限があり、仕方なく残りは本屋を巡ることとなる。
だが、犯罪に関する書籍ばかりを借り出し、購入したからだろう。司書やレジの人達の視線がなんとも不審げで、アリスは影宮に対する愚痴を胸中で叫んだのであった――。
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重い本を運び、ついでに帰り道で下着や靴下などの衣類を購入したアリスは、事務所に帰宅して早々、用意してもらっていたベッドに疲れた体で倒れ込む。
そこで、大切なことを忘れている事実に気が付いた。
そう、住み込みのバイトが決まったことを、家族に報告し忘れていたのである。陽道寺探偵事務所の貼り紙を見つけてからの展開はまさに怒涛であったので、連絡し忘れていたことは無理もないような気はするが、それでもやはり罪悪感はあった。
急に住み込みのバイトを始めたなどと言えば、母に怒られるだろうか。明日には私服や学校に必要なものなどを事務所に移動させねばならないのだが。そんなことを心配しながらスマホを操作し、母が電話に出るのを待つ。
少しして、いつも通り陽気な声の母が出た。
おそるおそる事情を説明してみたものの、返ってきたのは予想に反して嬉しそうな母の声である。
幸か不幸か、母が娘を心配する気配はまるでなかった。
電話の向こうから「おー!」という掛け声が聞こえる。アリスの母は正気を疑うほどポジティブで、いつもこんな感じなのであった。
アリスは通話を切って、枕に顔をうずめる。ここは、おおらかな母に感謝する場面――なのかもしれないが、アリスは少しばかり複雑な気持ちになった。
こうして、陽道寺探偵事務所で初めて過ごす夜は、穏やかに更けていく。
嬉しかったのは、甘田の作る料理が美味だったことだろう。
なんでも、陽道寺と影宮は放置しておくとインスタント食品しか食べず、露月に至ってはちくわとかまぼこしか食べないため、自然と甘田が家事担当になったのだそうだ。
ちなみに、皆の洗濯や掃除も甘田がおこなっているらしい。甘田がいなくなれば、この事務所は壊滅するのではなかろうか。アリスはいささか心配になる。
さらに、アリスの学校での弁当まで甘田に用意してもらえることとなった。成長期の女の子にきちんとした食事は必須、ということらしい。有難いという他ない。
早くこの生活に慣れて料理も覚えて、己の弁当くらいは作れるようになりたいものである。自慢ではないがアリスは料理に不慣れで、目玉焼きで火柱を作った挙句に玉子を炭に変えるスキルの持ち主だった。中学校の頃の先生は「食材に対する冒涜だ」と言って、泣いていた。
そんなことを考えながら風呂に入り、疲れ果てた体をベッドにうずめる。
今日一日の出来事を想起しながら、アリスは天井を眺めた。
こんなふうに考えてしまうところは、母親譲りだろうか。今後に対する不安がないと言えばもちろん嘘になるけれども、今は疲れていてそれどころではない。
夜は、疲労のおかげですぐに眠りの世界へと落ちることが出来た。睡眠は皆に等しく穏やかで、いいことも悪いことも忘れさせてくれる。
しかし、眠りの淵へ落ちていこうとしていたアリスは、このとき予想もしていなかった。
まさか自分が、深夜に心霊現象――激しいラップ音で起こされる羽目になることなど。そして、その悩みがこれから先も続くであろうことなど――。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!