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第10話

十話
544
2019/08/25 09:09
 帰って事務所の扉を開けると、たくさんの犬達に迎えられた。どうも人懐こい子達のようで、出会ったばかりのアリスにもしっぽを振ってくれる。
陽道寺
陽道寺
初仕事、ご苦労だったな八代。先程、依頼人から感謝の電話が入った。これにて、お前を正式に我が探偵事務所のバイトに任命する
八代アリス
八代アリス
あ、ありがとうございます……
陽道寺
陽道寺
お前の部屋はすでに用意してある。最上階の奥の部屋だ。風呂もついているため、安心していい。一応、俺の新品の服も何着か用意した。着替えに使いたければ好きに使え。あとの衣類は自分でなんとかするんだな
 結局、怒涛の勢いで流されるふうにここで働くことが決定してしまったわけだ。が、やはり学校から近い場所に住み込みで働けるのは有難いため、この場は素直に喜ぶべきなのだろう。
甘田
甘田
お疲れ様、アリスくん。影宮くんと仕事するの、大変だったでしょ?
八代アリス
八代アリス
そりゃもう。なんにも説明してくれないまま、どんどん先に進んでいっちゃうんですよ
露月
露月
初めての仕事が彼の助手とは……。同情を禁じ得ません……
影宮
影宮
言っておくが、そいつは助手なんて立派なものじゃなかったぞ。ただ依頼主の家で茶とまんじゅうをご馳走になっただけだ
八代アリス
八代アリス
そ、それは影宮さんがなにも説明してくれないから――
 そのとき、アリスの台詞を遮るように電話が鳴り響いた。陽道寺が取る。
陽道寺
陽道寺
こちら、陽道寺探偵事務所だ。誰だ、貴様は。……む。ああ……うん……
 彼は受話器から顔を離し、影宮を見た。
陽道寺
陽道寺
影宮、電話だ
影宮
影宮
僕に? なんだ、新しい依頼か?
陽道寺
陽道寺
お前の担当だ
 影宮の表情が、あからさまに硬くなる。彼はぎこちなく陽道寺から受話器を受け取った。
影宮
影宮
も、もしもし……。え? あー、いや……今日はちょっと、副業が忙しくて……。なに? ……おい、聞いていないぞ! 真っ白な原稿がそんな日数で埋まるわけ……あ、えーと……そう、原稿のデータが壊れてだな、その……。まっ、待て待て、待ってくれ! 違うんだ! 本気を出せばなんとかなるんだが、しかし、もう少し猶予を――あっ
 電話が切れたのか、影宮は受話器を呆然とした顔で見つめる。そうして、突如目付きを鋭くしたかと思うと、アリスを睨んで指差した。
影宮
影宮
おいバイト! 今すぐ図書館から小説のネタになりそうな資料を借りてこい!
八代アリス
八代アリス
し、資料ですか? いったいどんな……
影宮
影宮
過去の事件に関する資料だ! 凶悪犯罪、猟奇殺人、復讐、愉快犯。とにかくそのへんの資料を片っ端から借りてこい!
八代アリス
八代アリス
そ、そんなに持てません!
影宮
影宮
筋トレだと思って運べ! 僕の仕事のためだ!
露月
露月
女性にそれは無茶なのでは……
甘田
甘田
いい資料があったからって、いい作品が書けるとは限らないよー
影宮
影宮
黙れクズ! 女に追い回されて神経衰弱してしまえ!
甘田
甘田
だから、なんで俺にだけ辛辣なのよ、君は
陽道寺
陽道寺
いい機会だ。己の才能のなさを認めて小説家を廃業し、探偵の仕事に集中するがいい
影宮
影宮
僕の本業は探偵小説家だ! 死んでもそんな真似できるか!
 影宮はアリスに向き直る。
影宮
影宮
なにやってる! 早く資料を借りてこい! 僕が担当から怒られてもいいのか!
 鮮やかに謎を解き、駄菓子をおごってくれた影宮に対して上昇していた好感度が、アリスの中で急下降していった。
八代アリス
八代アリス
影宮さんが怒られるのは、ちゃんとコツコツ仕事をしてこなかった影宮さん本人の責任で……
影宮
影宮
なんだと、お前。僕に喧嘩を売るつもりか? 悪いが女だからといって容赦はしないぞ
甘田
甘田
まぁまぁ。俺が車を出すからさ。それで一緒に図書館まで行こうか? アリスくん
露月
露月
甘田さん、淫行条例というのをご存じでしょうか
甘田
甘田
だから、なんで君も俺に辛辣なの。そこまで言うなら露月くん、君も一緒に来ればいいだろ
露月
露月
申し訳ありませんが、私は甘田さんのようなタイプはちょっと……
甘田
甘田
なんで俺がフラれたみたいになってんのよ。いつも皆のご飯作ってるの、俺だからね
陽道寺
陽道寺
甘田、明日の夕飯はトンカツにしろ
甘田
甘田
悪いけど、明日は鍋だよ
影宮
影宮
早く行けといってるのが、まだわからんのか!
甘田
甘田
はいはい、わかったよ。まったく……。じゃ、行こうか、アリスくん
露月
露月
甘田さん、淫行条例というのを――
甘田
甘田
女子高生に手は出さないよ!
 こうして、アリスは甘田の運転する車に乗って、図書館まで行く運びとなったのだった。しかし、図書館の貸し出しには冊数制限があり、仕方なく残りは本屋を巡ることとなる。

 だが、犯罪に関する書籍ばかりを借り出し、購入したからだろう。司書やレジの人達の視線がなんとも不審げで、アリスは影宮に対する愚痴を胸中で叫んだのであった――。

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 重い本を運び、ついでに帰り道で下着や靴下などの衣類を購入したアリスは、事務所に帰宅して早々、用意してもらっていたベッドに疲れた体で倒れ込む。
 そこで、大切なことを忘れている事実に気が付いた。
八代アリス
八代アリス
あ……お母さんに電話しないと……
 そう、住み込みのバイトが決まったことを、家族に報告し忘れていたのである。陽道寺探偵事務所の貼り紙を見つけてからの展開はまさに怒涛であったので、連絡し忘れていたことは無理もないような気はするが、それでもやはり罪悪感はあった。

 急に住み込みのバイトを始めたなどと言えば、母に怒られるだろうか。明日には私服や学校に必要なものなどを事務所に移動させねばならないのだが。そんなことを心配しながらスマホを操作し、母が電話に出るのを待つ。
 少しして、いつも通り陽気な声の母が出た。
はーい、ママでーす。アリスちゃん? 今どこにいるのよー
八代アリス
八代アリス
あ、お母さん? あのね、じつは――
 おそるおそる事情を説明してみたものの、返ってきたのは予想に反して嬉しそうな母の声である。
まぁ、住み込みのバイト? しかも学校の近く? すごいじゃない、アリスちゃん! 家が燃えたばっかりだっていうのに、もうそんな立派なバイト先を見つけるなんて! たくましい子に育って、ママとっても嬉しいわー!
 幸か不幸か、母が娘を心配する気配はまるでなかった。
まかないまで出るなんて、親切なところねぇ。あ、でもちゃんとお勉強はするのよ。部屋のお掃除もしっかりね
八代アリス
八代アリス
う、うん……
こっちはパパがすっかり落ち込んじゃってるから、アリスちゃんがしっかりしていて本当に嬉しいわぁ。家が燃えちゃったのは悲しいけど、でも燃えちゃったものは仕方ないわよねー。それよりママは、皆に怪我がなかったことのほうが嬉しいわ
八代アリス
八代アリス
そ、そうだよね……。皆に怪我がなくて、なによりだよね……
そうよー。それ以上のことはないわ。一切合切燃えちゃったけど、それに関してはこれから頑張るしかないんだし、落ち込んでる暇はないわよー!
 電話の向こうから「おー!」という掛け声が聞こえる。アリスの母は正気を疑うほどポジティブで、いつもこんな感じなのであった。
八代アリス
八代アリス
えっと、じゃあ今日はとりあえずこれで電話切るね。またなにかあったら連絡するから
了解ー。体には気を付けるのよ。ママやパパがいないからって、夜更かしは駄目だからね
八代アリス
八代アリス
わかってるってば
 アリスは通話を切って、枕に顔をうずめる。ここは、おおらかな母に感謝する場面――なのかもしれないが、アリスは少しばかり複雑な気持ちになった。
 こうして、陽道寺探偵事務所で初めて過ごす夜は、穏やかに更けていく。

 嬉しかったのは、甘田の作る料理が美味だったことだろう。
 なんでも、陽道寺と影宮は放置しておくとインスタント食品しか食べず、露月に至ってはちくわとかまぼこしか食べないため、自然と甘田が家事担当になったのだそうだ。

 ちなみに、皆の洗濯や掃除も甘田がおこなっているらしい。甘田がいなくなれば、この事務所は壊滅するのではなかろうか。アリスはいささか心配になる。
 さらに、アリスの学校での弁当まで甘田に用意してもらえることとなった。成長期の女の子にきちんとした食事は必須、ということらしい。有難いという他ない。

 早くこの生活に慣れて料理も覚えて、己の弁当くらいは作れるようになりたいものである。自慢ではないがアリスは料理に不慣れで、目玉焼きで火柱を作った挙句に玉子を炭に変えるスキルの持ち主だった。中学校の頃の先生は「食材に対する冒涜だ」と言って、泣いていた。

 そんなことを考えながら風呂に入り、疲れ果てた体をベッドにうずめる。
 今日一日の出来事を想起しながら、アリスは天井を眺めた。
八代アリス
八代アリス
……ま、なるようになるかぁ
 こんなふうに考えてしまうところは、母親譲りだろうか。今後に対する不安がないと言えばもちろん嘘になるけれども、今は疲れていてそれどころではない。
 夜は、疲労のおかげですぐに眠りの世界へと落ちることが出来た。睡眠は皆に等しく穏やかで、いいことも悪いことも忘れさせてくれる。

 しかし、眠りの淵へ落ちていこうとしていたアリスは、このとき予想もしていなかった。
 まさか自分が、深夜に心霊現象――激しいラップ音で起こされる羽目になることなど。そして、その悩みがこれから先も続くであろうことなど――。

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