第6話

あんみつと、予期せぬ吉報
62
2020/09/28 15:43
「お帰りなさいませ、旦那様」

 とっぷりと夜も深まった時分。この頃はすっかり夜も冷え込み、冬の入口に当たるこの小雪の季節は、舞い散る木枯しの代わり文字通りちらちらと雪が振り始める頃であった。
 玄関先で会釈する女中達に返事をしながら、屋敷の主人は小雪に濡れた羽織を無造作に手渡した。普段ならば真っ先に自室へ向かうところ、その日才谷は真反対の方向へと進んでいた。背後で戸惑う従者に「旅支度を」とだけ言い残し、足早に廊下を通り抜けていった。向かう先は再奥の座敷、二匹の猫が暇を持て余しているであろう場所。片手に持った風呂敷には旅の途中で購入した高級あんみつが入っている。
 甘党な彼女への手土産だ。

 辿り着いた座敷の襖を引くと、やや大きめな座椅子に腰かけた少女の後ろ姿が真っ先に目に入った。どうやら机に突っ伏した状態で、うたた寝をしているようだ。傍らには何十冊もの本が山積みになって置かれている。もう一匹の猫は、部屋の隅に置かれた丸火鉢の付近でぬくぬくと丸まっていた。通い猫のくせをしてすっかり我が物顔で居座っているものだから、以前から辟易している存在だ。いくら悩んだところで、振り回されることには既に慣れていたが。
 才谷は派手な音を立てぬよう慎重に襖を閉め、ゆっくりと背後に近づいた。机の上には、主の部屋から勝手に持ち出したであろう書物が散在していた。その数々にちらりと目を通した才谷は密かに感心する。この齢にして蘭学も嗜むのか、と。
 かつて都一と謳われた花魁の、知識を吸収しようとする意欲は実に凄まじい。この屋敷には様々な分野の書物を山程揃えているが、彼女はそれらを全て短時間で読破し、新しいものを要求してくる程の読書家なのだ。数週間前は天文学に強い興味を示し、目を輝かせながら「この資料に載っている天球儀が欲しい」とせがんできたので、惜しみなく買い与えてやった。
 最近は西洋の学術や文化、まじない等にのめり込んでいるようだ。次は何を要求されるのだろう。才谷はこの少女の新しい一面を見ることに、密かに楽しみを覚えていた。そしてその為なら、金に糸目はつけないつもりだった。自分が持っている全財産はどうせ、孫の孫の代まで遊び倒せるであろう額である。

 才谷は未だ背後に立ったまま、眠りつづける少女を見つめていた。今までいつ如何なる時も、何者かが部屋に入ればその瞬間飛び起きるほどに胡蝶は警戒を怠らなかった。忍として根づいた習性が嫌でもそうさせたのであろう。しかしここ最近は、その気配は全く見られない。現にここまで接近しても、彼女はすやすやと寝息を立てている。
 ふいに柔らかそうな黒髪が寝息にふわりと揺れ、才谷はそれに無意識に手を伸ばした。疚しい気持ちではなく、純粋に触れてみたいと思ったからだ。しかし触れるか否かの距離で、小さな身体は微かに身動きした。

「ん……お帰りなさい才谷」
「ああ、ただいま胡蝶」

 才谷が瞬時に手を後ろに隠したのと同時に、目覚めた胡蝶が欠伸を手で隠しながら上体を起こした。危うくばれるところだった、と才谷は安堵の溜息を吐く。以前髪の毛についた糸くずを取ってやった時、まるで猫のようにその手を強く弾かれた経験があるからだ。ちなみにその引っ掻き傷は未だ手の甲に残っている。

「随分と早いお帰りで。暫く向こうに滞在するのかと思ってた」
「此度の用は墓参りだけだったからな。ほら、食べなさい」

 風呂敷で頭を突つくと、寝ぼけ眼を擦っていた胡蝶は不機嫌そうな面持ちで見上げた。

「味の保証は」
「名の知れた老舗店のものだぞ。安心しなさい」
「……前もそう言ってたくせに外れだったじゃない。忘れたの?」

 ぶつくさ言いながらも風呂敷を広げ始める胡蝶に、才谷は愉快そうに笑う。舌の肥えたこの花魁を満足させられる菓子には、未だ数回しか巡り会えていない。今回はお口に合うといいのだが。
 不貞腐れた口調の割に意気揚々とした表情を浮かべた胡蝶の手によって、花塗りの椀の蓋が開けられる。そこには小豆、甘煮杏、白玉、賽の目状の寒天が乗せられ、中心に餡子がたっぷりと盛りつけられていた。全体にかけられた黒蜜がてらてらと光り、芸術品といっても過言ではない華やかな椀だった。
 胡蝶は礼儀正しく手を合わせたのち、匙で掬い取り口に運んだ。隣に腰を下ろした才谷は、目を閉じながら味わう彼女の様子をこっそり伺う。やがてその目は開かれ、引きしまっていた表情が微かに緩んだ。

「しつこ過ぎない甘さ、上品な風味……うん。まあまあかな」
「気に入ったようで何よりだ」
「あんみつなんて食べるの、六年振りかも。昔はよく父さんが与えてくれたんだ」

 六年前というと、故郷で両親や妹と共に暮らしていた頃だ。口に広がる小豆の優しい味わいに、胡蝶は無意識の内に顔を綻ばせた。
 長期の任務を終えた父親がたまに持ち帰ってくれた土産物を、姉妹はいつも大喜びしながら仲良く平らげた。食の細い鈴蘭でさえ父親の選ぶ甘味には目がなく、必ず先に完食しては胡蝶の皿を羨ましそうに見つめてきたものだ。両親の目を盗みながら最後の一口を食べさせてやった思い出は、片手ではとても数えきれない。胡蝶は遠い記憶を懐かしみながら、何度も匙を運んだ。
 さっぱりとした寒天と甘く濃厚な餡子は相性抜群で、芳醇な黒蜜の香りが更にそれを引き立てる。小豆の柔らかい触感も甘煮杏のまろやかさも、口の中で合わさることにより様々な味が楽しめるのだ。胡蝶がこんなにも心惹かれる理由はただ一つ、自分でも忘れかけていたこと。

「ああ、そういえば……これって私の大好物だったっけ」
「……これと父親の方、どちらが美味いんだ?」
「は?」

 いや何でもない、とその場を流す才谷を胡蝶は少し不審に思ったが、好物である目の前のあんみつに夢中なおかげですぐに記憶の隅へと追いやられた。
 あっという間に椀の中は空になり、才谷が淹れた茶を飲み下した胡蝶はふうっと一息ついた。それを見届けた彼が口を開く。

「それで、身体の具合はどうだ」

 胡蝶はちらりと目線を下に投げ、己の腹に手を置いた。
 無事に包帯が取れただけでなく、痛みも全く感じない。毎日飲まされた外国製の薬は非常に不味く───加えてこの男にもらう“薬”に関しては嫌な思い出もあったのだが───胡蝶はそれをぐっと我慢し回復に努めてきた。大きな手術ではあったものの、腕利きの名医による治療とその後の完璧な処置のおかげで奇跡的に感染症にも罹ることなく、胡蝶の傷はほぼ完治にまで至っていた。

「お陰様で快調だよ。四か月も此処に閉じこもってたら流石にね」

 その返答に、才谷は満足気に頷きながら顎を擦った。

「結構だ。実はそろそろ、君にお願いしたい任務があってね」
「はい、御主人様。何なりと」

 胡蝶はすぐさま言葉を返し、不敵な笑みを浮かべてみせた。
 好きな時間に起床し化粧もせず、可愛らしい猫と戯れ、思いのまま書物に読み耽る。遊郭で忙しなく働いていた頃にはとても考えられなかった怠惰な生活も、決して悪いものではなかった。しかし、身体が怠ってしまうことに関してはどうしても歯痒い気持ちを抱かずにはいられなかった。何もしない日々をいたずらに過ごしていると、ふいに我に戻った瞬間“自分は無力である”ということを嫌でも感じさせられる。いつまでもこうしてはいられないし、いたくもない。己の脳内を強く占めるのは、やはり妹鈴蘭の存在なのだ。
 待ち侘びていた外出解禁、つまりそれは情報集めが可能になるということ。胡蝶は諸手を上げて喜びそうになるのをぐっと堪えた。いくら療養中とはいえ、都で花めく花魁である。子どもじみた真似は己の矜恃が許さない。喜々とした表情で静かに次の言葉を待つ胡蝶に、才谷は普段通りの傲慢な口調で言い放った。

「明日から私の護衛につきなさい。向かうは遥か北の方角だ。十日以上かかることを見越しておくように」

 今まで都から一歩も出たことのない胡蝶にとって、それは願ってもいない好機だった。地方の遊郭についての情報はごくたまに客から拾える程度で、ほとんど手をつけられていなかったからだ。
 のんびりしてはいられないと、胡蝶はすぐさま立ち上がり押入れへと駆け寄った。長旅に必要な着替えや日用品の数々、商売道具の武器をてきぱきと畳に並べていく。胡蝶は手際良く準備を進めながら、未だ背後で腰を落ち着けたままの才谷に声をかけた。

「またお得意の商談でもしに行くつもり?今度は暗殺されないようにしてよね。ま、私が絶対にさせないけど」
「ある意味では、な。とある遊郭に在籍する遊女を身請けしようと考えていてね。彼女の合意を得なければ、今までの君の苦労は水の泡となってしまう」

 その口調はいつも通り飄々とした声色であったが、最後まで聞き終える前に胡蝶の動きはぴたりと止まる。そんな、何かの間違いでは。声にならない疑惑が喉を圧迫した。
 言葉の一つ一つを理解したその瞬間、胡蝶の全身にぞわりと鳥肌が立つ。鼓膜に反響するのは乱れた己の息遣いと、弾けてしまいそうなくらいに脈打つ心臓。そして背後の才谷が立ち上がり、段々と遠ざかっていく衣擦れの音。
 期待と不信感が同時に駆け巡り、脳がぐつぐつと茹だりそうになる。にわかには信じ難く、どうしても慎重にならざるを得ない。何せそれは、胡蝶が何年も求め探してきたものなのだから。もしこれが質の悪い冗談なら、絶対にただではおかない。
 恐る恐る振り向くと、才谷はこちらに背を向けたまま襖の前で佇んでいた。ぴんと伸ばされた真っ直ぐな姿勢、されども背中だけでは何も感情を読み取れない。胡蝶は、ふらふらと立ち上がり、乾ききった唇の端を舐めた。

「それ、って」
「明朝に発つ。それまでに支度を整えておきなさい」

 才谷は着物の袖を翻し、軽い口調に似つかわしくない毅然たる眼差しを胡蝶に向けた。嘘か真かは、その面持ちを一目見れば充分に伝わる。そして彼が言い放った次の言葉に、動揺を隠せない赤茶色の瞳は大きく見開かれ、同時にひゅっと喉を引き攣らせた。



「妹を、迎えに行くぞ」



 それは、神無月の暮れ。
 あと一月で年の瀬が訪れる頃であった。

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