第8話

【7話】
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2019/07/03 10:37
 消毒液の匂いがした。
幸い、すぐ近くに町立病院があったから、響さんを抱えて駆け込んだところだった。
事態は良いとは言えない、とのことだった。明日って、言ったのに。
馬鹿だった。ほんとうに、僕は馬鹿だ。
「馬鹿だ……」
パタパタと足音を立てて、看護師さんがやって来た。
「大分落ち着きましたよ。面会も可能です。どうぞ。」
そう言って扉を開けてくれた。僕は小さくお礼を言って中に入る。
響さんは、無機質なベッドに座っていた。
「ごめんねぇ、心配かけて」
「あ、いえ……」
ベッド脇の丸椅子に腰掛ける。まだ顔色が悪いままだ。もう、戻らないんだろうか。
握りしめた拳は、爪が食い込んで痛んだ。と、僕の拳に彼女の手が優しく重なる。
「ね、こんな時間だけど、お家は平気?」
気がつけば、午後九時を回っていた。
「平気です。友達の家に泊まる、と連絡を入れたので」
よかった、と微笑んだ彼女は、酷く弱々しく見えた。もういつ倒れてもおかしくない。見るからに、そんな様子だった。
けほ、と彼女が咳き込んだ。咄嗟に背中をさする。
彼女が口を覆った手は、血に塗れていた。
「_ぁ」
声にならなかった。頭が真っ白になった。
何が起きた?血を吐いたんだ。響さんが、血を。
「せ、先生を呼びに、」
「待って!」
響さんが僕の手を掴んだ。これまでのどの時よりも、強い力だった。
「行かないで」
「、でも」
「お願い。…お願い」
結局、僕は根負けして椅子に腰を落ち着けた。しばらく、沈黙が流れた。
「坂口さん」
「ん、なあに?」
「…すみません、僕、何もできなくて」
真っ直ぐ顔を見られなかった。情けなかった。苦しかった。胸が締め付けられる思いだった。
その思いは、彼女の笑い声によって吹き飛ばされた。
「響くんが謝ることじゃないわ。それに、もうたくさん、やりたいことやったもん」
やりたいこと。僕はそれに、貢献できただろうか。
「あ」
ん?と彼女がこちらを見る。声に出てしまった。
ひとつ、出来なかったことを思い出した。彼女が望んでいたのに、僕が突っぱねてしまったこと。
「あの、僕、正直、わかりません。好きってどういうものなのか。」
「…うん、そうだよね」
言え、僕。今言わなかったら、もう二度と、言えない。早く、言うんだ。
「けど、何をするにも、どこへ行くにも、」
僕は椅子から腰を浮かせ、彼女の肩に手を添えた。
「…響さんとがいいって、思いました」

「_え、」
僕らの唇が重なる。触れたのはほんの一瞬だった。だって僕は、正しいやり方なんて知らないから。
初めてだったが、生憎レモンの味はしなかった。鉄臭い血の香りだった。
彼女はゆでダコのように、顔を真っ赤にして笑っていた。
「ずるいよ、響くん」

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