【廣瀬】
最低だ、俺...。
何が歩兵頭並だ。
何が恩返しだ。
俺はなんのために、刀を降るってきたんだ?
...わかんねぇよ。
何ヶ月ぶりかの京の街へ帰ってきた。
凍えるような寒い夜。
俺の心は錆び付いて、何も考えたくなかった。
ー俺はこの手で恩人を殺した。
俺がー...幕府の補佐役なんかじゃなかったら、こんなことにならなくて済んだんだ。
誰もいない暗い夜道を歩いていると、遠くから1人の女の姿が薄ら見えた。
ーくそっ。
なんで...こんなときに。
今、一番会いたくない奴に会うなんて。
会いたくなかったのか...?
本当はずっと、心の拠り所であったはずだ。
そして誰よりも早く会いたかったはずだ。
なのに...なんで今こんなに会いたくないんだ?
明日香。
少し離れたところで、お互い立ち止まり目を合わせる。
明日香は驚いた顔で俺の顔を見つめた。
そしてしばらくして俺のもとへ駆け寄り、両手で俺の手を優しく包み込むようにとった。
嬉しそうにしながら俺の顔を覗き込む。
しかし、俺は下方に目を逸らした。
ー見れないよ。見られたくない。こんな顔...。
明日香は何も言わない俺を不思議そうにして、少し間を開けてから静かに尋ねた。
明日香は悲しげな顔をして少し目線を逸らした。
ばか。こいつまでこんな顔さして、何してんだ俺。
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【明日香】
かける言葉が見つからなかった。
遊女の仕事を終えて、たまたま帰り道を歩いていたとき、廣瀬さんに久々にあえた。
すごく嬉しい。…けれど。
妙に大人しい彼の顔を覗くと、
廣瀬さんは泣きそうな目をしていた。
…彼は、武士としての役割を果たすべくして大切な人を殺した。
幕命に従うことは、避けては通れない武士の運命。
廣瀬さんは夜空を仰いで口を開いた。
つーっと光る一滴の雫が廣瀬さんの頬を伝った。
その声は微かに震えていた。
元気出してください、といいかけたとき、廣瀬さんはトンっと私の肩に額をくっつけた。
廣瀬さんの肩が震えていたことに気づく。
そして、彼が静かに泣いているがわかった。
雪が優しく私たちを包み込むように舞う雪華の夜。
恩人を殺して、廣瀬さんは、どれだけ辛かっただろう。
悔しそうに声を荒らげた彼の震えるその背中に、そっと腕を回し、抱き締めた。
おさなちゃんだって、しまだって。
みんな廣瀬さんに憧れを抱いている。
廣瀬さんは左手を私の背中にのばし、ぎゅっと力強く抱き締めた。
少し微笑みながら彼は言った。
その瞬間、目から涙が溢れ出した。
あぁ、もう。
泣かせないでよ...。
私の発言に驚いたのか、ぱっと顔を上げて私を見つめる廣瀬さん。
涙ぐみながらも、はっきりとこう告げた。
私の顔はすでに真っ赤だろう。耳まで熱くて鼓動が早鐘を打つ。
そんな私をみて廣瀬さんはおかしそうに笑った。
廣瀬さんは私の耳元に顔を近づけて口を開いた。
ニコッといつもの笑顔を見せる廣瀬さんの言葉に、今度は身体中から湯気が出るほど暑くなった。
名前を呼ばれたかと思ったその時。
目の前が暗くなる。
ー唇に柔らかな感触。熱っぽい吐息。
廣瀬さんは、深く口付けをした。
しばらくして唇が離れた。
そして優しい声で廣瀬さんは呟いた。
.....
しばらく意味がわからなかった。
でも、自然と涙が溢れる。
身請け...
それは、遊女たちに課せられた身代金のような高額な値段を間夫が支払い自分のものにすることだ。
その値段は約60万円前後といわれ、簡単には返済できない額だ。
男性は妾の遊女を手に入れるにはその額を払わなければならない。
身請けした後の遊女は遊郭を辞め、島原を出て、大抵その男性と生涯を共に暮らす。
…廣瀬さんは有名な武家の御曹司で裕福な家庭に生まれたから、身請けできる余裕があるのだ。
くしゃくしゃの顔で下を俯きながら泣く私を廣瀬さんは優しく頭を撫でた。
お互いの気持ちが通じ合った雪の降る夜だった。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。