「お前の『元・好きな人』は、これくらいじゃ折れないよ」
そう言って、いつものように私の頭をポンと叩いて。
黒尾くんはひらひらと手を振って、そのままコートへと戻っていった。
「…………えっ?」
残された私は、手にしたボトルを持ったまま、その場に固まってしまった。
心臓が、驚きでうるさいくらいにドクドクと脈打っている。
(えっ……ええっ!? 今、なんて……?)
元・好きな人。
その言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。
(バレてたの……!? 私が、黒尾くんのこと好きだったの……)
隠せていたつもりだった。
彼と目が合うだけでうまく喋れなくなって、いつもからかわれて。
それでも、私のこの一方的な片思いは彼に気づかれることなく、過去のものとして胸の奥にしまえているんだと思ってた。
なのに、彼は知っていたんだ。
私が彼を、どんなに真っ直ぐに見つめていたのかを。
「っ……、う、嘘でしょ……」
あまりの恥ずかしさに、顔が火を噴きそうになる。
あんなふうに冗談めかして言わなくてもいいのに。いつものように飄々とした態度ではぐらかされたような気がして、なんだかモヤモヤする。
……でも。
昔、黒尾くんに抱いていたあの甘酸っぱいような胸の痛みは、もうそこにはなかった。
今、私の心をいっぱいにしているのは、別の感情。
(……秋くんに、申し訳ないよ)
今、私が本当に好きで、大切にしたいのは秋くんだ。
秋くんは、私が黒尾くんを好きだったことを知った上で、私を信じてここに送り出してくれた。
それなのに、目の前で黒尾くんにあんなことを言われて、こんなに動揺してしまっている自分が、なんだか秋くんを裏切っているような気がして苦しくなる。
「あなた、……スコア。サーブ、始まるよ」
「っ! あ、ごめん研磨くん!」
研磨くんの声に弾かれたように顔を上げると、コートの中ではすでに黒尾くんが鋭い視線でネットの向こうを見据えていた。
さっき感じた「無理をしているような違和感」が何だったのか、ますます分からなくなる。
(……しっかりしなきゃ)
自分に言い聞かせ、私は震える手でスコアブックを広げた。
今は、音駒のマネージャーとしてここにいるんだから。
私を信じてくれている秋くんのためにも、目の前のみんなのためにも、動揺している暇なんてない。
コートの上では、黒尾くんと、秋くんの、激しい火花が散っていた。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!