母はそう言って、薄く笑みを浮かべる。そして唇の動きだけで、あたしに話しかけた。
『先生に、お礼は?』
……と。
記者の男の人は、今にも泣きそうな表情で母の後ろをついて行く。
少し可哀想な気もしたけれど、母のことだ。悪いようにはしないだろう。
夏目さんはため息混じりに答え、頭をかいた。
夏目さんも、あたしのことを想ってくれている。そう期待出来ただけで、あたしは幸せだった。
嘘でも、幸せだと思う。
嘘でも、良かった。
だけどもし、本当に嘘だったら?
さっきまで、泣いていたせいだろうか?
一度ゆるんでしまった涙腺は、涙を溜めておくということが出来ないみたい。
ぽたりぽたりと、降り始めの雨みたいに、涙の粒が頬をすべり落ちた。
瞳を潤す涙の膜がはがれ落ちる。
夏目さんの真剣な眼差しに焦がされて。
先生と生徒の距離を超えた、その先を。
その答えを知りたくて。
その感情に触れてみたくて。
あたしは夏目さんの瞳を見つめ返した。
見つめ合って、お互いの心を覗き合って。
答えが見つかりそうな瞬間、夏目さんはふと視線をそらした。
夏目さんの視線をたどると、あたしの足元にたどり着いた。
慌てて外に飛び出したせいで、あたしの靴は上履きのまま……。
自分のこれまでの行動をふり返った途端、今の状況が恥ずかしくなった。
夏目さんの手がすうっと伸びて、あたしの頭をふわりと包みこんだ。
あたしを慰めるために抱きしめて、あたしを励ますために頭を撫でて……。
あたしの呟きに、夏目さんは頬をゆるめた。
そう宣言すると、あたしはきびすを返した。
あんな風に部室を飛び出しておいて、一体どんな顔をして戻ればいいんだろう?
そんなことも、思うけれど。
過去の悲しみに浸るよりも。
過去の過ちを責めるよりも。
もっともっと強く深く。
あたしは、夏目さんに相応しい人になりたいと思った。
そう。例えば、いつも側であたしを見守ってくれる父のような。
いつも自分の思った通りの道を歩む母のような。
優しさと強さを持った大人の女性に。
他の誰でもない、自分のために。
あたしは今の自分の思いを紅さんに伝えると決め、部室へと向かった。
あたしが自分の意志で選ぶ。
辛い過去との決別を。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!