第8話

花を供えて
2,519
2019/09/18 09:09

幸せだった時のことほど、今、思い出すと辛い。
永沢 胡桃
永沢 胡桃
お仕事中、急に訪ねてきてすみませんでした
田辺先生
ううん、いいのよ。
今は授業の準備とか雑務をこなす時間だから。
もしまた帰ってくることがあったら、ぜひ顔を見せてね
永沢 胡桃
永沢 胡桃
はい

他の職員たちにも挨拶をして、私は塾を後にした。


田辺先生も、あのメッセージを送ることはできただろうけれど、彼女の人柄も考えるとそれはなさそうだ。
永沢 胡桃
永沢 胡桃
(同じ時期に、塾に通っていた生徒っていうのもあり得るし……)

恥ずかしいことに、私と想太が付き合っていたことは隠しきれていなかったようだ。


それならば、予想以上に多くの人間が、私たちの関係を知っていた可能性がある。


当時の塾仲間全員に話を聞くのも骨が折れるので、私はひとまず、事故現場に行ってみることにした。


葬儀の日は、とてもじゃないが事故現場を訪ねる気分ではなかったけれど、今はもう心構えができていた。



***



飲食店のガス漏れによる爆発だと、報道で知ってはいた。


写真も見たし、どこの店だろう、くらいにしか思っていなかった。
永沢 胡桃
永沢 胡桃
そんな……

焼け跡を目の前にして、私は愕然がくぜんとした。


それはかつて、私と想太が何度も一緒に食事をした喫茶店だった。


あのクリスマスイブに初めて訪れた、思い出の場所だったのに。


店舗の跡にはいくつもの献花が置かれ、商店街そのものも静かだった。


私も近くの花屋でカーネーションを一輪購入し、戻ってきて花を供え、手を合わせた。


じわりと、涙が浮かぶ。
河端 零
河端 零
胡桃?
永沢 胡桃
永沢 胡桃
? あ、零くん!

名前を呼ばれて顔を上げると、零くんがいた。


連絡もせずに私がこっちに来たので、ここで会って驚いた様子だ。
河端 零
河端 零
来てたのか
永沢 胡桃
永沢 胡桃
……うん。
連絡すればよかったね
河端 零
河端 零
気にすんなって。
一人になりたい時もあるだろうし
永沢 胡桃
永沢 胡桃
ありがとう

零くんらしい、と思う。


いつだって、そっと隣にいてくれるような優しさで包んでくれる。


彼も菊の花を手にしているところを見ると、偶然私と同じ事を思って、ここに来たようだった。
永沢 胡桃
永沢 胡桃
この喫茶店だったんだね……。
事故現場って
河端 零
河端 零
うん。
二人の思い出の場所だし、胡桃に余計なショックを与えないようにって、葬儀の日は黙ってた。
胡桃がいずれここに来るとは分かってたけど……
永沢 胡桃
永沢 胡桃
そうだったんだ。
ありがとうね

私と零くんが初めて会ったのも、この喫茶店だった。


「胡桃に、僕の大切な友達を紹介したい」と想太が言ったので、私も喜んで会うことにした。


だから、三人にとっても、思い出の場所と言える。
河端 零
河端 零
喫茶店のマスターも奥さんも、爆発に巻き込まれて重傷だったんだけど、昨日から今朝にかけて、二人とも亡くなったって。
残念だけど……
永沢 胡桃
永沢 胡桃
そんな……二人まで……

地元がメディアで騒がれるのが嫌で、極力何も見ず、耳に入れないようにしていた。


だから、今になって強い衝撃が心を打つ。
河端 零
河端 零
今日通夜があるらしい。
マスターたちには世話になったし、また一緒に行くか?
永沢 胡桃
永沢 胡桃
……うん

二人が亡くなったことは悲しいけれど、想太の最期を知っている人がいないことを歯がゆくも思う。


想太は最期に笑っていたのだろうか、幸せだったのだろうか。


溢れた涙を拭っていると、零くんが黙って頭を撫でてくれた。


私がどういう心境でいるのか、彼はちゃんと理解した上でそうしてくれていると、私は分かっていた。

【第9話につづく】

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