あの日から。
夏を過ぎ、季節は春へと移り変わろうとしていた。
あの日から。
僕と凪音さんは、1言も喋らなかった。
僕も、凪音さんも。
お互いがお互いを避けていたからだ。
これでいい。
僕はそう思う。
出会う前に戻っただけだ。
ただ、それだけ。
なのに。
君のいない日々は、何かが、欠けていた。
そろそろ、季節は春に変わるのかもしれない。
生暖かい風の中を歩きながら、僕は考える。
今日も、何かの足りないような日々を送り、学校から帰っていた。
僕の帰り道は、人の少ない道だ。
ただ、会うとすればーー
心臓が、止まった気がした。
だって、その声は。
口は、自動的にその名前を呟いていた。
あの日以来、俯きがちになった奈緒。
今も、俯いたまま。
緊張、していた。
奈緒は、僕の家の近くに住んでいる。
朝練のあるバドミントン部を選んだのも、奈緒が朝練のない美術部に入ったのを噂で聞き、登校する時会わないようにする為だった。
奈緒に、会わせる顔がないから。
奈緒の声は、小さい頃からか細い小さな声なのだがあれ以来更に小さく聞き取りにくくなっている。
緊張が声に出ないように意識して問う。
奈緒は、ほんの少しだけ顔を上げた。
迷うように奈緒は視線を彷徨わせて、少しの沈黙を作り、そして言った。
やっぱり、自信なさげな小さな声で。
それだけ言うとまた俯いて、僕の横を通り過ぎた。
どうやら、ついてこい、ということらしい。
数秒迷って、結局、奈緒の後を歩いた。
ほんの少し、距離を置いて。
生暖かい風が、空気が、こんなに不快に感じたのは初めてかもしれないと思った。
がチャリ
奈緒が静かに玄関の扉を開ける。
そして少しだけ声を張り上げて言った。
僕も、玄関へと上がる奈緒に続いて奈緒の家へと入る。もちろん挨拶も忘れず。
奈緒のお母さんが、リビングの扉から顔を出して、にっこりと微笑んだ。
僕もぺこりと頭を下げた。
もう何年も奈緒の家に遊びに来ていない。
…4年もか。
きっと、奈緒のお母さんは、僕が奈緒にしたことを知っているのだろう。
けれど、奈緒が僕を連れてきたということで、僕を信頼してもいいと思ったから、こんなふうにいつも通りの笑みを向けてくれるのだろう。
それが、何だか胸を締め付けた。
どこか、あたたかい痛み。
奈緒は首を横に振ってそう答える。
奈緒のお母さんは首を傾げた。
けれどまたふんわりと微笑んだ。
悠というのは、奈緒の弟だ。
今は小学5年生だったはずだ。
明るく、姉思いないい子だ。
随分会っていないな…と、少し懐かしくなった。
奈緒のお母さんは微笑んでそう言うとリビングの扉をパタンと閉めた。
階段の方を指差して、奈緒は階段を登って行く。
僕も奈緒のあとを着いてゆく。
奈緒の家は木を多く使った家だ。
お母さんがインテリアデザイナーだから、センスがいいのかもしれない。
光の多く入る造りだから落ち着く…気がする。
Naoと書かれたネームプレートの掛かった部屋の扉を開けて奈緒が部屋へと入るのに続いて僕も入る。
物の少ない、さっぱりした部屋だった。
白い物が多いのは、小さい頃から変わらなかった。
奈緒が、学習机の椅子を指差して言う。
奈緒はというと、いつも通り足音の立てない歩き方で部屋を出て行った。
とりあえず、学習机の椅子に座る。
…落ち着かない。
女子の部屋ということもあるし、引け目のある奈緒の部屋ということもあるかもしれない。
机の上に、1冊の本が置かれていた。
4年前の僕が、奈緒に貸した本だった。
絵描きの少年と、病気を患う少女の、優しい物語…だった気がする。
奈緒が物凄く気になっていたがお金がなかったらしいので僕が買って奈緒に貸していたのだ。
本に、栞が挟んであった。
途中のページに。
栞の挟んであるページを見てみた。
名シーンという訳でもないありふれた場面だった。
…本を返すつもりでは、なかった?
じゃあ、何で…。
驚いて顔を上げると、奈緒が、2つのカップを載せたトレーを学習机に置いていた。
奈緒は気配を消すのが恐ろしいほど上手いのだが、あれ以来もっと上手くなった気がする。
答えて、カップを手に取る。
紅茶の湯気の向こうの奈緒を見る。
奈緒もカップは手に取っているが、ぼんやりとカップを眺めているだけだった。
ぽつりと奈緒が呟いた。
僕は、2、3度瞬いた。
奈緒は、まだぼんやりとカップを見つめている。
奈緒が少しカップを揺らす。
紅茶の水面に波紋が広がる。
そして、消える。
僕は、小さく首を傾げた。
奈緒は緩く首を横に振った。
僕は、手の中のカップへと視線を落とした。
小さく、奈緒が首を傾げる気配。
だって。
僕は、深く俯いた。
まただ。また、痛い。
その痛みを遮ったのは、奈緒の笑い声だった。
こっちの気も知れず、楽しそうに笑っている。
なんだかやるせなくてじとーっと睨むと、やっと奈緒は笑い声を収めた。
そして、奈緒は座っていたベッドから立ち上がり、窓枠に寄りかかって空を仰いだ。
思わず非難の目を向けると、奈緒は振り返った。
その顔は、笑っていた。
柔らかくどこまでもまっすぐな、あの笑顔だった。
晴れやかに、清々しく。
ありがとう、私のことを、想ってくれて。
それだけしか、呟けなかった。
この時の感情を、僕はきっと一生言葉にすることができないだろう。
哀しみなのか、悔しさなのか、悼みなのか。
それともーー
胸を塞ぐ痛みが何なのか分からないけれど。
涙は溢れて、止まらなかった。
夕焼けの色が、濃くなってきた。
僕は頷いて、自分の靴を履く。
どこか察したように、奈緒が不安そうに問う。
僕は、笑った。
さあ、完結させよう。
僕と君の、物語も。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。