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第1話

春は別れの季節だ


雪をかぶっていた並木がいつのまにか蕾をつけ、花を開かせ、喫茶店周辺が淡い桃色に染まった頃。隣り合わせで使っていたロッカーの片一方は空っぽになっていた。
この喫茶の窓から見てる桜が一番綺麗だ、と言っていたあの人はもういない。きっと最後まで『嘘』を守り続けたんだ。

休憩の合間に「お花見ですね」と二人窓際の席に座り、取り急ぎコンビニで購入した三色団子を桜を眺めながら食べたこと。「萌(メグム)さんは絶対花より団子ですよね」と涼しい顔で言ってきたこと。彼の言葉に否定出来ないでいると笑われたこと。でも休憩時間が終わる寸前に「来年も萌さんとお花見出来たらいいなぁ」と彼はどこか悲しそうな目で、ぽつり、そう言った。「渡利(ワタリ)さんのお願いなら、いくらでも聞きますよ。来年はマスターも呼んでお花見しましょうね」彼の気持ちを察してしまうのが怖くて、私は逃げた。分かっていた。薄々気が付いていた。きっと彼と私に"来年"なんていう未来はないということ。彼はもうすぐ遠くへ行ってしまうこと。

私、まだ何も彼に恩返しが出来ていないのに。と閉店後、萌はロッカーを指でなぞる。無機質で冷たい。この部屋にいるといつか肩が触れた時に鼻をくすぐった彼の香水の匂いがするようで苦しくなる。ツツー、と静かに指を滑らせる。店員二人で回していたのに、彼がいなくなったことにより更に忙しくなるのね。すぐ誰かを雇わないといけない状況になるから、このロッカーはもうすぐ渡利さんじゃない誰かのものになっちゃうんだ。ほんと、酷いなぁ。黙っていなくなるなんて。




『渡利くん、やめちゃったんだよ。昨日付けで』


一週間も姿を見せない彼を案じて、また、変に胸騒ぎしてしまう自分を安心させるために、マスターに「渡利さん風邪でも引いちゃったんですかね?」と聞いた答えがこれだった。マスターは頭をぽりぽりとかき、苦笑いを浮かべていた。
"この喫茶店の売りは萌ちゃんと渡利くんの美男美女コンビだったのにねぇ。どうやら田舎に帰られるみたいで。寂しくなっちゃったよここも"
私はマスターのこの言葉を聞いて、これがすぐ渡利さんの『嘘』だと分かった。彼は以前「自分は祖父母も両親も、みんな東京生まれなんだよ」と言っていたから。
嘘をつかないといけないような、何か『事実』があってそれに私は触れることを許されなかった。
渡利さんは私が知りたがっても「世の中には知らなくていいことだってあるんですよ」と言って核心を突かれるのを軽々と避けちゃいそうだけど。

それにしても酷な人だなぁ、と萌はずるずるとロッカーにもたれかかる。いつの間にか私の中で貴方の存在はこんなにも大きくなっていたというのに。貴方はきっと知らない。私が貴方をどれだけ思っていたかということ。
この気持ちを言葉にしたら駄目だ、と思ってずっとずっと蓋をしてきたけどもう開けていいかな、渡利さん。貴方の優しくて、大きくて、でも常に何かに囚われているようなその背中が本当に。

「………責任、取ってくださいよ。渡利さんのばか…」

静かに響く声。扉の向こうから"ばか、っていうなんて酷いな〜萌さん"と肩を揺らして笑う姿を期待してしまう。でもその代わりに姿を現したのは

「あ…皐月(サツキ)くん」

名前を呼べば"にゃあ"と小さく鳴いて萌の足元に擦り寄る。この喫茶店の看板猫、皐月くんだ。一年ほど前の五月の夕方、突然降り出した雨に慌てて店先の看板をしまおうと外に出た時だった。店の前で衰弱した体に雨が当たり、か細く鳴き声をあげている猫。小さい体は小刻みに震え、すぐ渡利さんと動物病院へ連れて行った覚えが。今はこの喫茶店の二階に家を構えるマスターがお世話をしている。

あの頃はすごく小さかったのに、甘やかしすぎたのだろうか。今では少し丸くなってしまった。まるでお餅のようだ。
渡利さんにもすごく懐いていたからきっと貴方も寂しいのね、私と同じね、と萌は皐月を優しく撫でる。その時、ぽろぽろと涙がこぼれた。その雫が皐月の体に当たったようで、不思議そうにこちらを見上げる。

「びっくりさせちゃってごめんね」と慌てて涙を拭うが一度流れたそれはなかなか止まらなかった。
渡利さんもこの温もりに触れたんだな、この温もりを知っているんだな、と。そう思えば彼に会いたくて仕方ない。


以前、渡利さんは「この喫茶店は僕の唯一の居場所なんですよ」と言ったことがある。食器を拭きながら突然そんなことを言うので、驚きのあまり上手く話を切り返せなかった。店でも人気者の渡利さんなら居場所なんていくらでもあるだろうに、なんでそんなことを言うんだろうと不思議で仕方なかった。…でも、今なら分かる気がする。本当の彼は私たちが知り得ない、孤独な人だったと。勿論それについて確信めいたことがある訳ではない。でも時々ふっと窓の外を見つめ何かを考えている姿は、孤独以外の何物でもなかった。きっと私がどんなに気の利いた言葉を持っていたとしても、そんな彼を前にしては口に出来なかっただろう。

…私は周りと違う。貴方をちやほやするような女じゃないの、って心のどこかで思っていたのかな。

でも、そんな彼の為に何かしてあげたかったな。孤独な彼に寄り添ってあげたかった。私の知っている"幸せのカタチ"を教えてあげたかった。

例えばこうやってね…と萌は皐月を抱き、頰にすり寄せた。皐月もゴロゴロと喉を鳴らし気持ち良さそうな表情を浮かべる。…これだけで結構心は満たされるんです。温もりと触れるだけでこんなにも。渡利さんはこの発見に気づいていたかな。

「もしいつか渡利さんに会えたら、ほっぺにすりすりしてあげようね、皐月」


これ以上彼のことを考えていてもきりがないとわかった萌はその場をゆっくりと立ち上がり、帰る支度をする。渡利さんが「萌さんによく似合いますね」と言った薄手のコートを羽織り、そして皐月をマスターの元へ帰すと、自分も帰路についた。
そんな中、ぽつぽつと雨が降り出し、少し駆け足でアパートに駆け込む。まだ振り始めだったことが幸いで、肩に残った雫を払いながらポストに挟まった広告を取り出した。すると、はらり。一通の手紙が落ちた。白い封筒だった。

「手紙…?誰から…?」と差出人を見ればそこには『渡利 秀一』の四文字。

渡利さんからじゃないか。萌は急いで家の鍵を開け、靴を脱ぎ捨て、玄関の電気をつける。そして玄関先にも関わらず、その場にしゃがみ込み封を開けた。中に入っていたのは一枚の便箋。達筆な字がぎっしりと並んでいる。上がる呼吸を抑えながら、その文字を目で追った。

突然喫茶店を辞めたことに対しての謝罪。定年を超えたマスターや、店員一人になってしまった私への心配。良くしてくださったお客さんへの申し訳なさ。そしてこの街を離れることにしたこと、同時にこの店を辞めなければならなくなったこと。そしてその理由は"言えない"ということ。

『萌さんと過ごせた時間は僕の人生においてとても大切なものになりました。ありがとう』『萌さんの人生がどうか、どうか幸せなものでありますように』

彼の気持ちが、彼の言葉で伝わってきた。その中に偽りがあるようには感じられず、これが彼の本音なのだ、と。私が触れてもいい彼の中身。外の雨は一層強くなっていて、でもその雨音は萌の耳には入らない。まるでこの手紙を彼が朗読しているようで、直接言われているようで、また涙が頰を伝う。



" … ___ 渡利 秀一 "

そして最後の行を見た瞬間に、まるでダムが決壊したかのように熱いものが次から次へと溢れた。まるで子供のように声を上げて泣く。

「本当に貴方という人は…っ、ずるいです……」

最後にこんなことを残すなんて。貴方はその一時の感情だとしても、私の心には深い深い爪痕を残すというのに。でも今はその爪痕さえ愛おしく思えてしまう。だってそれは、私の近くに貴方がいたという証拠になるから。今の私にはそれに縋ることしかできない。

「…貴方が忘れたとしても、私は貴方のことを一生忘れられないのに」

ううん、忘れられないじゃない。忘れたくないの。ずっと私の心を独り占めして欲しいの。
それに気づいた時、それは関係が変わってしまうのを恐れていた自分の中で渡利さんへの気持ちに名前がついた瞬間だった。

コートの袖が濃い色に変わっていく。いくつの季節を重ねても、この上着しか着れないなぁ、と濡れた袖を見て萌は苦笑する。だって、貴方が褒めてくれたから。…想い人が褒めてくれたから。



ひとしきり泣いた後、鏡で自分の顔を見て絶句する。これじゃあ明日の仕事出れないな…と萌は慌ててタオルに包んだ保冷剤を目の周りに当てた。ソファーに腰掛け目を閉じれば、浮かんでくるのは渡利さんの事ばかり。何も見えない暗い視界の中で一際輝く彼の笑った顔。思い起こしているのは自分なのに、あまりにも渡利さんのはにかんだ笑顔しか浮かばないから少し恥ずかしくなる。ああ、こんな姿、彼に見られなくてよかった。多分、これ以上彼の側にいたら本当に駄目になってしまうから。でも、でも、

「……今でも貴方は私の光です」

どこかで聞いたことのある言葉。今の自分にぴったりで思わず口ずさんでしまった。

約束を破ってしまったこと、どうか許して。
でもまだしばらくは、貴方のことを想う日々を送ります、ごめんね渡利さん。

彼の笑い声が耳の奥で聞こえてきたような。あり得ないのに、なぜかそんな気がした。








消印の無い白い封筒。その手紙の最後にはこう書かれていた。


『萌さん、僕のことはどうか忘れてください。これは僕との約束です』


春が訪れ、生命の息吹が次々に吹き込まれた頃。とある1組の男女はこうやって"別れ"を選択した。


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