耳にヘッドフォンを付けた彼は、歌手のレコーディング風景で見るような、パッドの付いた筒型の大きなマイクの前に立って歌い始めた。
パニックになっていると、奥に座っている男の人が文字の書かれた紙を私に見せた。
『ここにいていいから、これ以上、音をたてないで』
読み終えた私は、無言でうなずく。
私は、ゆーっくりとドリンクが乗ったお盆を机の上に置いた。
すると、また彼が紙を掲げる。
『空いてる席で、ゆっくり聴いてて』
そして彼は、優しく微笑みながらうなずいてくれた。
私は無言でぺこっとお辞儀をすると、近くのソファーに座った。
机の上にはパソコンやいろんな機材が置いてあって、たくさんのケーブルがそれらをつないでいる。
部屋の真ん中では、さっきの怖い彼が、バラードの曲を見事に歌い上げている。
あらためて聞くと、プロ並みのその歌唱力に驚きが隠せない。
さっきは怒鳴ってたから気づかなかったけれど、イケボ大好きな私も文句なしのいい声だ。
この曲は、人気シンガーソングライターの最新曲。
私も大好きでよく聴くけど、彼のカバーは、オリジナルよりもさらに甘く、しっとり歌っていて、うっとりと聴き入ってしまう。
やがて訪れたサビの部分も、澄み渡るような高音ボイスで歌いあげ、うっかりオリジナルを超えたんじゃないかと思うほど。
やがて歌い終えた彼に、思わず拍手をしようとして、ハッとなる。
私は、あわてて手を引っ込めた。
すると、彼はパソコンの前に移動して、リスナーからのコメントに目を通し始める。
柔らかい口調で、画面の向こうのリスナーたちに呼びかける。
それは、さっき私の部屋に怒鳴り込んできた時とは大違いの、耳に心地よい穏やかな声だった。
今度はリスナーからのコメントに、返事をしていく。
そして奥でパソコンをいじっている彼が合図すると、次の曲の準備を始めた。
そう言って歌いだした彼の歌に、はっとなる。
さっきのバラードとは打って変わって、ボカロ曲らしいアップテンポの明るい曲。
曲に合わせて、彼の歌い方も変わった。
その後も雑談を交えながら配信は続き、終わる頃には、すっかり私は彼のファンになっていた。
私は忘れないように、その名を心の中で繰り返す。
そして、無事配信が終了すると、
奥に座っていた、穏やかな雰囲気の彼が声をかけた。
歌い手の彼はヘッドフォンを外しながら、ふうっとひと息ついた。
やっと音をたてても良くなったことを確認すると、私はそーっと部屋を出ようとする。
私はびくっとして、ゆっくりと振り返った。
それを聞いて、彼は意地悪そうにニッと笑った。
両親の顔を思い浮かべて、私は大きなため息をついた。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!
転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。