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第1話

松文堂のねこ青年
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2018/04/18 22:13
「おじいさ…         んん?!」

松文堂。そこは歴史ある古本屋。
花咲くこの頃、どこもかしこも文明開化と騒がしく華々しく変わりつつある町。
着物を着る者も少なくなり、髪型も結いあげていた男子も女子も、今では欠片1つ残っていない。
けれど、時代に流されずにしみじみとした古本屋が細々とした路地裏にひっそりと佇んでいた。それが、私の好きな場所であり、大切な1つの家である松文堂。

だけど…

「(だれよ、この人!?)」

古本屋のおじいさん、“松木文和(まつきふみかず)”さん。
いつもは飼い猫の“初暖(ういはる)”と一緒にアンティークな赤椅子に深く腰掛け、山積みの古本を日が暮れるまで読んでいる。
本を読んでいるせいか、眼鏡はいつも鼻から落ちそうな崖っぷちに掛かっている。
おじいさんの優しい緩りとした表情はまさに古本を大切にする感情そのものだった。

…そのはずが、山積みの本の間に足をのせ、赤椅子に腰掛け、初暖を膝にのせて寝ている18ぐらいの青年がいた。
顔は眼が開いていないからよく分からないが、色白で茶髪、そして口からはよだれが垂れていた。
どうやら整った顔らしいが、その呆けた顔を見る限り、睨みつけるしかないような苛立ちが湧いた。
西洋化が進むこのご時世で、未だに学ランでなく少し色褪せた着物を着ているとは、勇気あるお方だとほんのわずかだけ感心した。

「…ふぁ~   …ん…   腰イテぇ…」

青年が目を覚ます。
私は慌てて逃げようと本を抱えて足早に出入り口に向かうが本の間に挟んでいた栞がスルリと落ちたことに気がつかなかった。

「ねえ。栞、落としたよ?」

それは私の名前が刻まれた、桜で作られた大切な栞。
私は立ち止まり、その栞を受け取ろうと青年のもとに足を運ぶ。

「お前、ちこっていうのか?」

青年は栞に書いてある漢字“千恋”を見詰めている。

「はい?」

私の名前が“ちこ”?
なにを言ってるんだろう。馬鹿にしているのだろうか。苛立ちより怒りががこみ上げてくる。

「ほら、ちこって。」

栞にある千恋の文字を指差して青年は真面目な顔で問い返した。巫山戯て問いかけていたわけではなかったことに今になって気づく。

「…それ、“ちこ”じゃなくて“せんれん”です。返してくれますか?」

「せんれん…どっかで聞いたことあるな…」

そんなのどうだっていい。
それより私はおじいさんの居場所を知りたい。
その時、青年が突然、声を上げた。
その声のせいか、静かな古本屋が一瞬、騒がしくなった。

「うあっ!!お前、名字は??」

その青年は何か思い出したような顔をして真剣な眼差しで私の応答を求めていた。

「七宮。七宮千恋(ナナミヤ センレン)」

普通は知らない人に名字なんて教えたら本当に大変なことになる。
でも、彼は多分、おじいさんの知り合いなのだろう。
それなら、どのみちいつか知られることになるのだから別に知られてもいいと私が下した判断だ。

「七宮家か!!あの子爵の!!」

いかにもそうである。子爵の身分である七宮家の長女、七宮千恋だ。
でも私はその肩書きをあまり気に入ってはいない。
あくまでも肩書きに過ぎないからだ。
家ということだけで認められている立場なんて、こっちからしてみれば何も面白くない。
青年はまた、質問を投げてくる。

「でもなんでこんなボロい店にいんの?」

青年は当然のような質問をしてきた。
私もされるだろうと思っていたから回答は簡単に答えられる。

「ここは私の家だから。本当の家は息苦しくて息も吸えないわ。」

青年は興味なさそうに「ふぅ~ん…」と魂が抜けたかのような雑な返事をした。
私は我に返り、青年に問い詰めた。

「そうだ、おじいさんは!?」

青年も「あっ」と思い出したような顔をした。
おじいさんから何か伝えられているのだろうか。

「病院だよ。ぎっくり腰だってさ。だから俺が店番。そう伝えろって言われた。」

なるほどね。と納得するしかない。
彼はおじいさんのお孫さんか何かだろうか。

「そうだ、これ。」

私は返すはずだった本を青年に渡した。
青年はそれを受け取ると表紙を二度見する。

「おー!!これ知ってる。」

その本は西洋童話を集めた童話集なのだが、初めて日本語訳され出版された大作だった。
知っていても過言ではない。

「へー…」

素っ気ない返事。
でも青年はそんなことに気に掛けていなかった。

「じゃ、また読もっかなー
いや、その前に寝よう…」

青年は先ほどと同じように今度は顔を本と本の谷間に埋めるようにまた眠り始めた。
初暖と一緒に。
私は心の奥底で、彼はきっと猫と同じ種族に分類する珍しい人間なんだ。
と、思い込んだ。
最後に、青年の名前を尋ねようとしたが、彼はもうとっくに夢の世界へと誘われていた。

「(まあ、また来たときにでも聞きましょう。)」

私は本棚にある本を何冊か手にとって、家へと帰った。
青年はずっと眠っていた。
路地裏から出ると、外はもう日は暮れ、夕日の真っ赤な光が町を照らしていた。

古本屋は時が止まる空間。
私はそんな松文堂が大好きだった。















それなのに──

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