「…なにここ…すごい…」
その部屋は壁一面が本棚でできていて、天井は見えないほど高い。
「暗い…」
青年はランタンにマッチで火を灯し、そのランタンを初暖に咥えさせた。
初暖が先導して歩いていく。
中央の螺旋階段を登るらしい。
「なあ、“猫に小判”って知ってるか?」
青年は唐突に質問してきた。
私を馬鹿にしているのかしら?
「それがどうしたの?」
「それってさ、猫に小判を与えても、小判の価値がわからない。って意味じゃん?」
なぜこの人は私に説明しているのだろう。
そんな言葉の意味くらい、女学校に通っていない幼少児でも分かるわよ。
青年がなにを言いたいのかはっきりとは分からない。
でも、彼の声は決して馬鹿にしているような笑いじみた口調では無いのは確かだった。
「じゃあさ、黒政家ってどんな仕事してるか知ってるか?」
「知ってるわよ。」
公爵家、黒政は代々お金を取り扱う仕事を江戸初期から始めていた。
だから今は─
「“黒銀”でしょ?」
黒政銀行の略である“黒銀”は世界的にも有名な金融グループである。
「そう。銀行なんだけどさ、昔は人がお金を扱ってたんじゃないんだよ。」
「どういうこと?」
人がお金を使うんだから、人以外のなにかがお金を扱えるわけ無いじゃない。
まともな話を始めたと思ったら、また巫山戯ているのだろうか。
だが彼は、まともに答える。
「人じゃ無かったんだってさ。
お金の価値の分からない奴。
──分かるだろ?」
まさか…と私は思った。
「着いたよ。ここに連れて行きたかった。」
いつの間にか長い、高い階段を登り切っていた。
今、私の目の前には大きな本棚が聳え立っている。
一冊一冊の本の厚みがものすごく、本棚にびっしり詰められている。
「…何も無いじゃない。」
期待を裏切るような絶望感と、ここまで来たという達成感と、見たこともない本たちに出会った高揚感でなんとも言えない心情だった。
「あるよ。」
青年は一冊、不思議な本を取った。
その表紙の文字は全く読むことのできない文字だった。
──真っ黒な本
どのページを開いても、真っ黒。
なにも書いていない。
「全てこんな文字の無い本なの?」
私の単純な質問だった。
だが、青年は驚いた顔で私をみる。
「チコにはこれが、どう見える…?」
私は自分が見えたままに彼に伝えた。
真っ黒で、読めない表紙と。
「おもしろいな、お前。ちょっと見てろ。」
青年はその真っ黒な本を開くと、初暖を抱え本の上に乗せた。
「今からやることは、初暖が死ぬわけじゃ無いからな。」
そう言うと、青年は本と初暖にランタンの火を移し燃やした。
「なにやってるの!?」
「大丈夫。殺したりなんかしない。」
彼は着物の中から真っ黒なマントを取り出し私と自分を包み込んだ。
「よし、行くぞ?」
「えっ!?…ちょっ!!」
私たちは、火の中へ飛び込んだ。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!