第8話

目に見えるものばかり
涼は風に目を細めた。
涼(りょう)
涼(りょう)
この海の底には今でも、人魚がいるかな
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
たぶん、いるんじゃないかな
禁忌を犯した人魚姫を教訓にして、二度と水面には上がって来ないかもしれないけれど。
涼(りょう)
涼(りょう)
柊花も水の中だったらうまく生きられる、とかだったりしないかね?
それはずっと前に私も考えた。
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
三十秒もお風呂にもぐっていられなかった
涼(りょう)
涼(りょう)
それ、俺よりダメじゃん
ふふっと鼻先で笑う。
街からだいぶ離れたこの海岸は、とても静かだった。
波の音でさえも、大人しい。
まるで、ふたりだけが世界に取り残されたような、孤独な空間だった。
涼(りょう)
涼(りょう)
寒い?
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
ぜんぜん大丈夫
彼はおもむろに立ち上がると、私の元へ駆け寄り両手を包み込むように握った。
涼(りょう)
涼(りょう)
嘘つき。こんなに冷たいじゃん·····唇も真っ青まっさおだし
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
··········ちょっとだけ
涼(りょう)
涼(りょう)
··········
彼の瞳にゆらりと光がさした。
口元はきゅっと結ばれて、それがとても哀しげで。
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
··········
涼(りょう)
涼(りょう)
いつもそうだよな
呟くように落ちた言葉。
涼(りょう)
涼(りょう)
·····どんなときも、本当のことは言わなくてさ
涼(りょう)
涼(りょう)
だからずっと、わからなかった
涼(りょう)
涼(りょう)
どうするのが正しいのか、わからなかった
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
何の話をしているの·····
涼(りょう)
涼(りょう)
とぼけるなよ
彼の目は鋭い声とは裏腹に、今にも泣きだしそうだった。
涼(りょう)
涼(りょう)
気づいているんだろ
いや、と間を置く。
涼(りょう)
涼(りょう)
気づいていたんだろ
彼のこんな顔を見るのは、何度目だろう。
その度に、私の胸までもが張り裂けそうだった。
でも、
でも。
私のシアワセに気づいていたとしても、彼のそばは離れるわけにはいかなかった。
そんな残酷なこと、傲慢ごうまんなこと、出来るわけないじゃない。
涼(りょう)
涼(りょう)
··········ごめんな
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
違う
違う、もうその言葉は聞きたくない。
柊花(しゅうか)
柊花(しゅうか)
そんな顔をしないで欲しいの
ずっとその事だけを願って、涼のシアワセを願って。
ただ、それだけだったのに。
涼は首を振る。
涙で絞られたかすれ声で、ささやいた。
涼(りょう)
涼(りょう)
俺は、だいじょうぶ、だよ。
私は体が硬直する。
心のどこかが震えた。痙攣けいれんするように激しく揺さぶられる。
『だいじょうぶ』
そう言った彼の声が脳内で何度も再生された。
突如、瞳から溢れ出す涙。
私は、その言葉を、彼の口から聞きたくなかった。それだけを恐れてきた。
なのに、どうして。
どうしてその言葉に、ほっと胸をなで下ろすような温かみが私を襲うんだろう。
涼(りょう)
涼(りょう)
もう、だいじょうぶだから
だから、私は泣いた。声を我慢せず、子供のように。それの止め方は、私にはわからなかった。
そんな壊れた私を見て、安心したように抱きしめる彼がいた。とても穏やかな波音が、優しい眼差まなざしで静観せいかんしていた。
もうすぐ、長い長い夜が完全に明ける。