第2話

一章 フレデリカとグレーテル
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2022/08/11 03:00
 初夏。花の盛りのこの季節、バラ園をそぞろ歩く人は多い。その人々の視線は今、一人の少女に引き寄せられていた。
「なんて、美しい。まさにエーデルクライン王国の宝石だ」
「天使が舞い降りたようだ」
 誰もが、ため息のような賛辞をもらす。

 ミルクにお日様の光を溶かしたような艶やかな金髪に、春の晴れた空に似た澄んだ瞳。白磁を思わせる肌と、野バラのように慎ましやかな薄紅の唇。天使と評されるその容姿には、瞳の色と合わせた、薄青色の絹のドレスがよく似合っていた。パニエでふんわり広げられたドレスの裾には、彼女の繊細な印象そのままの、精緻なレースが幾重にも重ねられている。

 咲き誇るバラの花にも劣らない、十六歳。

 彼女こそエーデルクライン国王の唯一の子供で、王位継承権第一位の王女、フレデリカだ。

 広大な敷地を誇るリリエンシルト宮殿は、三百年王国と呼ばれるエーデルクライン王国国王が住む宮殿だ。王の居住宮殿である「王宮」を中心に、「太陽宮」「月宮」「守護宮」など、建国の伝説に基づいて名づけられた七つの宮殿で構成されている。

 敷地の最も北側に位置するのは「天使宮」だった。天使宮は、フレデリカ王女が主をつとめる宮殿。その裏手には、貴族たちの交流の場として整えられたバラ園が広がる。

 胸が甘く騒ぐような、かぐわしい香りが満ちるそのバラ園を、フレデリカ王女は教育係の公爵夫人と侍女を数人従え、白大理石の四阿に向かっていた。

 四阿の下では、柔和な笑顔のエーデルクライン国王ハインツとその王妃ヘレネが、貴族たちの挨拶を受けている。普段なら王宮内で行われるはずの朝の謁見だった。しかし今日は侍従たちが趣向を変え、バラ園での謁見という気のきいた演出をしてみせたようだった。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
国王陛下。お母様。朝のご挨拶に伺いました。ご機嫌麗しいご様子、お喜び申し上げます
 フレデリカ王女は四阿の手前で立ち止まり、ドレスを摘んでお辞儀した。

 国王は満足げに微笑む。
ハインツ国王
フレデリカ。ちゃんと勉強はしているかい? いい子にしているかい?
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
はい
 顔をあげたフレデリカ王女が微笑むと、国王もつられるように笑みを深くする。隣に立つ王妃も、柔らかな優しい表情だ。
王妃
いい子ね、フレデリカ。しっかり励むのよ
 フレデリカ王女の頰が、嬉しさでほんのりと染まる。その従順な様子に満足げに頷いた国王だったが、何か思い出したらしい表情になる。
ハインツ国王
そうだ、ついでに言っておこう。フレデリカ。今夜、晩餐を共にする予定だったが、急な公務が入った。晩餐はまたの機会になる
 フレデリカ王女の顔に、さっと哀しげな色が走る。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
けれど陛下。晩餐は二ヶ月前からの……
公爵夫人
殿下
 背後から教育係の公爵夫人が、ひそめた声で鋭く叱責した。フレデリカ王女は慌てて、
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
わかりました。つつがなく、陛下がお務めを果たされることを祈っております
 と笑顔を作り、今一度深くお辞儀をする。

 国王の傍らにいた侍従が、「もう、あなた様の時間は終わりです」というようにフレデリカ王女に目配せした。それを察したらしい王女は、名残惜しそうな素振りは見せたものの、「では、また明日お目にかかりたく存じます」と告げ、国王と王妃の前を辞した。

 バラ園を天使宮の方へ戻る途中、幾人かが「お茶でもご一緒しませんか」「お散歩に行きませんか」と、フレデリカ王女に誘いかけた。だが王女は、「ごめんなさい。経済学の教授が来ていますから」と断って、天使宮へ向かう足を止めない。

 しかしそんな王女にするすると近づき、まるで近親者のように、砕けた笑顔で声をかけた中年の伯爵がいた。
ケルナー伯爵
殿下。オレリアンのお菓子が手に入りましたので、またお届けいたしましょうか?
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
あなたは確か……?
 妙に親しげな伯爵の様子に、王女は小首を傾げつつ足を止めた。
ケルナー伯爵
ケルナーでございます、殿下。ヘレネ王妃様のご出身、ザイツ侯爵家の縁戚でございます
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
あっ、あのケルナー伯爵ですね。時折、国外の珍しいお菓子など届けてくださる。ありがとうございます、いつも
 フレデリカ王女への贈り物は、日々途切れることはない。いちいち覚えきれるものではない。

 しかしそれが王女の興味を引く珍しいお菓子であれば、記憶に残るらしい。王女の顔に、素直な笑みがあふれる。
ケルナー伯爵
殿下。もしよろしければ、これからお茶を
 慇懃に腰を折ると、伯爵は王女の手を取ろうとする。しかし教育係の公爵夫人がさっと間に割り込み、それを阻止した。教育係が目配せすると、王女は申し訳なさそうに首を振る。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
経済学の教授が来ております。ごめんなさい。またいずれ。ごきげんよう、ケルナー伯爵
 そう言うと王女は、天使宮の中に消えた。ケルナー伯爵は残念そうに肩をすくめた。

 王女は立場上、特定の者と親しくすることを良しとされないのだ。王女に近づこうとする者たちは、ことごとく教育係に追い散らされる。

 しばらくすると、謁見を終えた国王と王妃がバラ園を去った。しかしその後も、かなりの人数がバラ園を散策していた。彼らの目当てはフレデリカ王女だった。

 フレデリカ王女の姿は普段、国王主催の舞踏会くらいでしか目にすることができない。その他の機会となると、宮殿の公式行事を待つか、こうやって彼女が主を務める天使宮のバラ園をうろつき、彼女が気まぐれにバルコニーに出てくるのを待つしかない。

 太陽が高くなり木の影が短くなる頃に、フレデリカ王女が二階のバルコニーに現れた。

 待ちわびていた者たちの視線は、天使のような美少女に釘付けになる。

 未練がましくバラ園に残っていたケルナー伯爵も、バルコニーを見あげていた。
貴婦人
あら、殿下は何をされていらっしゃるのかしら
 ケルナー伯爵の近くにいた貴婦人が、小首を傾げて問う。

 フレデリカ王女は華奢なオペラグラスで、バラ園の向こう側を熱心に見つめていた。
ケルナー伯爵
あれは小鳥の観察をなさっておいでなのだ。殿下は、花や小鳥など、美しく愛らしいものを、ことにお好みなのだ。まさに天使のごときお心延えでね
貴婦人
よく御存じですこと。ケルナー伯爵
ケルナー伯爵
わたしは殿下を、心からお可愛らしいと思っているからね。愛していると言ってもよい
 冗談めかして声をひそめたケルナー伯爵に、貴婦人は声を出して笑った。
貴婦人
まあ、めったに会話すらできない殿下をそこまで熱烈に? でもお気持ちもわかりますわよ。わたくしも、あのお美しい殿下と、せめてお茶をご一緒してみたいですもの