第6話

一章 フレデリカとグレーテル 5
176
2022/09/08 03:00
ユリウス・グロスハイム
ユリウス・グロスハイム
良い天気だ。神も僕たちの遠乗りを祝福しておいでだね
 ユリウスは上機嫌だ。反対にフレデリカの気分は、眩しさと暑さで、馬の蹄の辺りに落ちこんでいた。だが、安全対策は完璧だった。

 フレデリカは、ユリウスとは別の馬に一人騎乗したいと申し出た。そして遠乗り前に、父であるエーデルクライン王国国王ハインツに挨拶に行きその旨を報告すると、国王は機嫌良く、自分の愛馬をフレデリカに貸してくれた。

 国王の愛馬はよく慣らされていて大人しい性質で、めったなことで動揺しない、いい馬だ。

 フレデリカは国王の愛馬に横乗りし、轡は、熟練の馬手に引かせていた。

 悠然と前を歩くユリウスの愛馬は、貴公子にふさわしい白馬。

 東洋の外交官らしき男はユリウスと馬を並べて談笑しているが、時折、フレデリカの方を見ては微笑んでくれる。その満足げな様子に、自分が国王の名代として、この場に存在するだけで役立ったことに安堵する。

 リリエンシルト宮殿の背後には、小さな泉を中心に森がある。ここは国王専用の狩り場になっており、管理されている森なので、ゆっくりと遠乗りを楽しむには最適だった。

 背後からは、フレデリカと同じように馬手に引かせた馬に乗った、教育係の公爵夫人もついてくる。他にも数人の侍女と従者も徒歩で随行していた。遠乗りとはいえ、馬に乗ったお散歩行列といった風情で、どことなく気怠い空気が満ちている。

 フレデリカは、光がまだらに落ちてくる頭上の枝葉を見あげた。初夏の光は、フレデリカが気後れするほどにきらめいて美しい。

 その時突然、体がぐらぐら揺れた。
馬手
どう、どう
 轡をとっている馬手が、困ったように馬の鼻面を撫でている。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
どうしたのですか?
馬手
申し訳ありません。馬の機嫌が良くないようです。いつもは、こんなことはないのですが
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
いいえ、構いません。でも、なぜでしょう? 何か馬の気に障ることが……?
 馬は好きだ。臆病で優しい瞳が可愛らしい。自分の乗る馬が不快を感じているのが可哀相で、馬の首の方へ身を乗り出した瞬間だった。

 突然、馬が激しく首を振り立て、高く嘶いたと思うと、馬手の手から轡が離れた。

 滑り落ちそうになり、フレデリカは悲鳴をあげて馬の首にしがみついた。馬手は轡を取り直そうと伸び上がるが、馬は今一度嘶くと、首を振りながら突如駆け出した。
公爵夫人
フレデリカ様!
馬手
殿下!
 付き従っていた教育係の公爵夫人や従者、馬手の、悲鳴のような声が背後から聞こえたが、ふり返るどころの騒ぎではなかった。激しく首を振りながら、右に左に跳ねるように全速力で駆け出した馬から落ちないように、しがみついているので精一杯だ。
ユリウス・グロスハイム
ユリウス・グロスハイム
フレデリカ!
 背後から追ってくる馬の蹄の音と、緊迫した声。ユリウスだ。彼の乗馬術はぬきんでていて、この場に居合わせた誰よりも速く馬を走らせる。彼は、必死にフレデリカに追いつこうとしているのだ。天真爛漫な青年だが、こと、こんな時には最も頼りになる。

(助けて!)

 今にも馬から振り落とされそうだ。ただ必死に、馬の首にすがりつく。

 左右の緑の景色が、もの凄い速さで流れていく。下生えも木の枝も木の幹も、区別がつかないほどに素早く流れる。前方の視界が涙で滲む。その前方の滲んだ景色も、恐ろしいほどの速さでぐんぐん迫り、左右に流れていく。

 汗で手が滑り、今にも馬の背から体が浮きそうだった。

(誰か! 助けて!)

 心の中で悲鳴をあげたその時だった。前方に、人影が飛び出した。それはフレデリカと大差ない年頃の、粗末なエプロンドレスを身につけた黒髪の少女だった。

 ぞっとした。このままでは彼女を蹄にかけてしまう。こんな暴れ馬の蹄にかかれば、命はない。しかし黒髪の彼女は、黒い瞳で挑むように真っ直ぐこちらを睨みつけ、逃げる素振りがない。馬を止めようとしているように見えた。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
駄目! 逃げて!
 舌を嚙みそうな振動の中、フレデリカは必死に叫んだ。

 しかし少女は逃げない。あっという間に、馬は少女に迫った。

(止まって、止まって、お願い! あの子を殺さないで!!)

 悲鳴を殺し、馬の首にすがりついて、心の中で叫ぶようにして祈った瞬間、がつんと馬の蹄がなにかを蹴り上げた振動が伝わった。その激しい振動で、体がふわりと宙に浮かぶ。

 やけにゆっくりと体が浮き上がり、きらきらと光が降る枝葉の隙間から、青い空がはっきり見えた。そして浮き上がった体は、ゆっくり落下する。フレデリカは覚悟した。

(死ぬ)