目を開けて最初に見えたのは、太った中年女だった。女の背後には、煤が黒く染みこんだ剝き出しの梁がある。どうやらフレデリカは、硬いベッドに寝かされているようだった。
石炭の燃える、ちりちりという音が聞こえる。周囲には、野菜を煮ている暖かい香りと煤の臭いと、蒸気が満ちている。複数の人間が室内で立ち働いているらしく、食器が擦れる音や、話し声や、水を使う音がする。
(台所?)
そんな場所に入ったことはないのだが、周囲の状況からそんな気がした。とすると、フレデリカを覗きこんでいるのは、台所番の女なのだろう。
なぜ自分がこんなところにいるのか、状況が飲み込めない。けれど命だけはあるようだ。不思議と、自分の声が別人の声のように聞こえた。落馬の衝撃の影響だろうか。
周囲には、中年の女と似た格好をした女たちが十人近くいた。彼女たちも、フレデリカが気がついたのを見ると、通りすがりに覗き込み、「よかった」と笑顔を向けてくれる。
礼を言いつつ体を起こそうとすると、女はフレデリカの肩を支える。
そこでフレデリカは、はてと首を傾げる。
(蹴られた? 落馬ではなく? しかもグレーテル?)
女を見返すと、女は背中をさすってくれる。
問うと、女がきょとんとする。周りで立ち働いていた女たちも目を丸くする。しかしそれは一瞬のことで、すぐに全員が、がははははっと大声で笑った。
妙な間違いが起こっているようだ。焦りつつも訴えると、女たちが困惑した表情になる。
と、女たちが呆れたように顔を見合わせたので、愕然とした。信じてもらえていない。彼女たちは、フレデリカの顔を見たことがないのだろうか。
鉄オーブンの前で火加減を見ていた女が、苦笑しながら近寄ってきた。エプロンドレスのポケットから、オーブンの熱で温まった木枠の手鏡を取り出し、フレデリカの手に押しつける。
手鏡を覗きこんだ。そこに映っているのは、黒い瞳と真っ直ぐな黒髪の少女。フレデリカの作り物のような美貌よりもずっと魅力的な、子犬のように愛らしい少女だ。
(まあ、可愛らしい)
と思ったのは一瞬。間髪容れずに、息が止まりそうになった。
呼吸困難に陥りそうだったが、口から飛び出た妙な悲鳴の効果で、肺に空気が入る。そのおかげで失神しなくてすんだらしい。
そこから先なにを言えばいいのか分からず、口はぱくぱくと虚しく空気を吐き出す。
フレデリカを取り囲む困惑顔の女たちの背後から、呆れたような男の声がした。その声にふり返った女たちの顔が、嬉しげに緩む。
中年女たちが、年頃の娘のようなはしゃいだ笑い声で迎えたのは、金モールで飾られた黒い騎士団の軍服を身につけた青年だった。少し前、フレデリカがオペラグラスで覗き見していた地獄の番犬。第三騎士団団長のイザーク・シュルツだ。
(五歩圏内に地獄の番犬が!? こんな間近で会えるなんて!)
動揺する心に一瞬だけ、余計なときめきが滑り込んできたが、
(じゃなくて! 今、わたしは、なにがどうなっているの!?)
状況が状況なので、喜びはすぐに消える。
イザーク・シュルツは近寄ってくると、フレデリカを覗きこんだ。銀色の髪が、光に透けると白になる。夜明けの空のような紫の瞳が、フレデリカを見おろす。
イザークは面白そうに目を細める。ぞんざいな口のきき方が、遠目で見ていたときの印象とそぐわない。もっと慇懃な言葉遣いで、冷淡にしゃべると思っていた。けれど声は想像したとおりの、張りのある低い声だ。ハーブでも嚙んでいるのか、吐息から爽やかな香りがする。
地獄の番犬に、絶句された。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。