第8話

一章 フレデリカとグレーテル 7
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2022/09/22 03:00
台所番の女
良かった。気がついたね
 目を開けて最初に見えたのは、太った中年女だった。女の背後には、煤が黒く染みこんだ剝き出しの梁がある。どうやらフレデリカは、硬いベッドに寝かされているようだった。

 石炭の燃える、ちりちりという音が聞こえる。周囲には、野菜を煮ている暖かい香りと煤の臭いと、蒸気が満ちている。複数の人間が室内で立ち働いているらしく、食器が擦れる音や、話し声や、水を使う音がする。

(台所?)

 そんな場所に入ったことはないのだが、周囲の状況からそんな気がした。とすると、フレデリカを覗きこんでいるのは、台所番の女なのだろう。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
ここは、……どこですか?
 なぜ自分がこんなところにいるのか、状況が飲み込めない。けれど命だけはあるようだ。不思議と、自分の声が別人の声のように聞こえた。落馬の衝撃の影響だろうか。
台所番の女
台所だよ。でもよく助かったね、奇跡だよ。あんたは幸運の星の下に生まれたんだね
 周囲には、中年の女と似た格好をした女たちが十人近くいた。彼女たちも、フレデリカが気がついたのを見ると、通りすがりに覗き込み、「よかった」と笑顔を向けてくれる。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
ありがとう。本当に幸運です、わたし
 礼を言いつつ体を起こそうとすると、女はフレデリカの肩を支える。
台所番の女
無理するんじゃないよ、グレーテル。暴れ馬の蹄に蹴飛ばされたんだから
 そこでフレデリカは、はてと首を傾げる。

(蹴られた? 落馬ではなく? しかもグレーテル?)

 女を見返すと、女は背中をさすってくれる。
台所番の女
さあさあ、無理せずもう少しお休みよ、グレーテル。あんたの仕事は、あたしたちで分担してやっておくから。なんならお休みをもらって、二、三日実家のコーゼル村に帰ってもいいし
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
待ってください。グレーテルとは、誰ですか?
 問うと、女がきょとんとする。周りで立ち働いていた女たちも目を丸くする。しかしそれは一瞬のことで、すぐに全員が、がははははっと大声で笑った。
台所番の女
なんだい、記憶喪失ごっこかい? そんな茶目っ気があるなら、大丈夫だね! グレーテル
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
違います、ふざけてません。わたしは、グレーテルではありません。何の誤解が生じているのか分かりませんが、わたしはフレデリカです。フレデリカ・アップフェルバウムです
 妙な間違いが起こっているようだ。焦りつつも訴えると、女たちが困惑した表情になる。
台所番の女
フレデリカ・アップフェルバウム? フレデリカ殿下だって? あんたが?
 と、女たちが呆れたように顔を見合わせたので、愕然とした。信じてもらえていない。彼女たちは、フレデリカの顔を見たことがないのだろうか。
台所番の女
あんた、自分がエーデルクラインの宝石だと思うのかい? よく、顔を見てごらん
 鉄オーブンの前で火加減を見ていた女が、苦笑しながら近寄ってきた。エプロンドレスのポケットから、オーブンの熱で温まった木枠の手鏡を取り出し、フレデリカの手に押しつける。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
顔?
 手鏡を覗きこんだ。そこに映っているのは、黒い瞳と真っ直ぐな黒髪の少女。フレデリカの作り物のような美貌よりもずっと魅力的な、子犬のように愛らしい少女だ。

(まあ、可愛らしい)

 と思ったのは一瞬。間髪容れずに、息が止まりそうになった。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
ええええええええっ!?
 呼吸困難に陥りそうだったが、口から飛び出た妙な悲鳴の効果で、肺に空気が入る。そのおかげで失神しなくてすんだらしい。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
わたしはフレデリカです! でも、でも、どうして、こんな……!!
 そこから先なにを言えばいいのか分からず、口はぱくぱくと虚しく空気を吐き出す。
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
なんだ、元気なもんじゃないかよ
 フレデリカを取り囲む困惑顔の女たちの背後から、呆れたような男の声がした。その声にふり返った女たちの顔が、嬉しげに緩む。
台所番の女
イザーク。なんで宮殿にいるんだい?
台所番の女
来るなら、知らせといておくれよ。そしたら一張羅着て、待ってるのに
 中年女たちが、年頃の娘のようなはしゃいだ笑い声で迎えたのは、金モールで飾られた黒い騎士団の軍服を身につけた青年だった。少し前、フレデリカがオペラグラスで覗き見していた地獄の番犬。第三騎士団団長のイザーク・シュルツだ。

(五歩圏内に地獄の番犬が!? こんな間近で会えるなんて!)

 動揺する心に一瞬だけ、余計なときめきが滑り込んできたが、

(じゃなくて! 今、わたしは、なにがどうなっているの!?)

 状況が状況なので、喜びはすぐに消える。
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
陸軍大臣に報告があったんだ。帰り際に、グレーテルが馬に蹴られたって聞いて、様子を見に来たんだが。来る必要なかったか。元気そうに大声出してやがったな、グレーテル
 イザーク・シュルツは近寄ってくると、フレデリカを覗きこんだ。銀色の髪が、光に透けると白になる。夜明けの空のような紫の瞳が、フレデリカを見おろす。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
わ、わたしは……わたしは、グレーテルではありません
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
ふぅん。じゃあ、おまえ誰?
 イザークは面白そうに目を細める。ぞんざいな口のきき方が、遠目で見ていたときの印象とそぐわない。もっと慇懃な言葉遣いで、冷淡にしゃべると思っていた。けれど声は想像したとおりの、張りのある低い声だ。ハーブでも嚙んでいるのか、吐息から爽やかな香りがする。
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカです。王女のフレデリカです。どうしてこんなことになっているのか、わかりません。けれど、わたしはフレデリカです
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
王女殿下? おまえが?
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
そうです。そうなんです
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
エーデルクラインの宝石?
フレデリカ・アップフェルバウム
フレデリカ・アップフェルバウム
そうです
イザーク・シュルツ
イザーク・シュルツ
そうかよ。……まあ、なかなか……素っ頓狂なことを……
 地獄の番犬に、絶句された。