オペラグラスでバラ園の外周通路を観察し、エーデルクライン王国王女フレデリカは、息を吞む。むさぼるようにオペラグラス越しに見えるものを凝視し、視線で追いかける。
オペラグラス越しに見えているのは、小鳥ではなかった。
彼女が追跡していたのは、バラ園の外周通路をずかずか歩く、なんとなく不吉なオーラを纏った、黒い騎士団の軍服を身につけた青年だった。彼の軍服が金モールで飾られているのは、騎士団長の証だ。腰にはサーベルと一緒に、騎士団には珍しく拳銃を下げている。
黒い軍服は第三騎士団のものだ。
第三騎士団は、貴族専用の監獄、ロートタール監獄を警備するために存在する騎士団。
ロートタール監獄は、反逆や横領、殺人など、重犯罪をおかした貴族が収監される。ここに収監されて、再び外へ出た者はいない。ロートタール監獄に収監されることは、死を意味した。
勢い、そこを警備する最高責任者たる第三騎士団長の姿を五歩圏内で見る事があれば、それは死刑宣告を受けたのと同じと、貴族たちは恐れた。
第三騎士団長は地獄の番犬と呼ばれ、黒猫以上の不吉の象徴扱いされている。
しかし現在第三騎士団長を務める青年は、不気味な存在感とは裏腹に、冷たく整った容姿をしている。剣の輝きのような銀の髪に、夜明けの空のような、薄紫の瞳が印象的だ。
(不吉感満点なのに美しいなんて、素敵。あの容姿から察するに、慇懃に冷淡にしゃべるんだろうな。彼の名前は確か、イザーク・シュルツよね)
地獄の番犬の名前は、ずっと前に、しっかりひっそりと調査済みだった。
不吉で美しい、不気味で可愛い、怖いのにふざけている。そんな相反する性質をあわせもつものは、フレデリカの最も好みの存在だった。
経済学の老教授が部屋に入ってきた。そして机の上に置かれた課題を手に取り、眼鏡越しに確認しはじめたので、フレデリカはオペラグラスから目を離し、慌てて室内へ戻った。
老教授が本をまとめるのを待っていると、ふと、先ほどバラ園で出会ったケルナー伯爵のことを思い出した。
時折、国外の珍しいお菓子がフレデリカの手元に届けられるのは記憶に残っていたが、それがあの、母王妃の縁戚であるケルナー伯爵からだと、顔と名前が一致していなかった。
時々顔を合わせるだけの人なので、強い印象はない。どこかの親切なおじ様、といった感じだ。そのケルナー伯爵が、今日はオレリアンのお菓子を届けると言っていた。
(オレリアン……)
近頃、侍女たちの会話に出てくる不穏な噂がある。そのことについて詳しく訊きたいと思っても、フレデリカがその話題に興味を示すと侍女たちは、「わたくしどもも、詳しくは知りませんので」と及び腰になる話題。その噂は、フレデリカを不安にさせた。
オレリアンは、大陸西方にある大国だ。老教授は微笑して顔をあげた。
咎める口調で老教授に言われ、フレデリカは口を噤む。
『王位継承者であろうとも従順であれ』というのが、エーデルクラインの王家の教えだった。王以外の者をのさばらせないための、徹底した教えだ。
王女は女王となるまでは、硬い殻に閉じこめられているようなものだ。けして出しゃばらず、しかし厳しく教養をたたき込まれ、躾けられ、いずれ来る王となる日を待つ。
老教授は「わかればよろしいのです」と言い、部屋を出ていった。
老教授を見送り机の上の時計に目をやると、予定よりずっと早く勉強が終わっている。
途端に、フレデリカの心は明るくなった。
勉強時間と決められている間は、教育係の公爵夫人も侍女も、フレデリカの部屋に入らないので、余った時間は自由に使える。人目のない時間は貴重だ。
ネックレスにして、肌身離さず持ち歩いている鍵を胸元から引っ張り出すと、嬉しげに握りしめて寝室に向かった。明るい光が射しこむ寝室の中で、小ぶりな衣装簞笥が部屋の隅に一棹、ひっそりと佇んでいた。この衣装簞笥だけは、侍女にも触ることを禁じている。
衣装簞笥の扉の鍵穴に、握りしめていた鍵を差しこむ。扉を開く。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!