背もたれから徐々に見え始めた彼女の姿に何処か安心した彼は、
ゆっくりと彼女の顔の方へと近寄る。
そして、ソファの座枠にもたれるようにカーペットの上に座った。
彼女の顔を背に、佐野 万次郎はドライヤーのスイッチを入れる。
『カチッ』
『ブォオオオオン』
熱風を金髪に当てながら、髪にブラシを通していく。
かなりの音の大きさにも関わらず、
ソファの上で眠ってしまった彼女には起きる気配が全くない。
ある程度乾かしたところで、
彼はカチッと音を鳴らしてドライヤーのスイッチを切った。
静かな寝息をたてるだけで、しっかりと閉じられた瞼が開く素振りの1つも見えない彼女に「おーい、」と彼は話し掛ける。
ローテーブルの上に先程まで使っていたドライヤーとブラシを置くと、
今度は彼女を前にしてカーペットの上に腰を据える。
そして、彼女の目元へと手を伸ばした。
『スッ』
佐野 万次郎はゆっくり伸ばした手を彼女の左頬に添え、
じっと彼女の顔を見つめる。
彼は頬に添えた手の親指で、
ゆっくりと彼女の僅かに黒くなった目の下を優しく撫でた。
消え入りそうな声で、彼が呟く。
彼が発したその言葉は、物音一つ無い、彼ら以外誰も居ない閑寂な部屋の中で、
完全に溶けきった。
後にも先にも、粒程度にも残らない。
誰の耳にも届かない。
彼の手がゆっくりと彼女の頬から離れる。
ぽつり、ぽつりと口の端から言葉が零れ落ちる、
それは降り始めの緩やかな雨によく似ていた。
『コツン、』
言い終えた佐野 万次郎は彼女の額と自分の額を合わせた。
それから静かに目を伏せる。
時間の流れさえも感じず、ただただ彼女の少し冷たい額を彼の素肌で感じているだけだった。
それはテスト明けの彼女が、
なかなか目を覚まさない事を知っての行動だった。
それでも尚、穏やかな寝息をたて続ける彼女の様子に、彼は思わずフッと笑ってしまう。
眠っている間の彼女の空白の時間は、
留めを知らない水の流れのように緩やかに過ぎていった。
いや、流れてなどいない。
確かに、
そこで止まっていたのだ。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!