第3話

春を思う
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2020/10/18 04:56
春だ、と呟いてみた。
甘ったるいのにちょっぴり苦いような春の匂いが鼻腔を通る。穏やかな風が優しく頬を撫でる。

春の気配が満ちる裏庭で、立ち尽くす僕に向けて、静かに彼女は笑っていた。






「──どうかしたの?」


「いや…先生が探してたよ」


「そっか。ありがとう。…もしかして、昼休み中ずっと探してくれてたの?」


「まあ……うん」


「…私、君と喋ったこと、あったっけ」


「多分ない、かな」


「そう…」


「……あの。名前、なんていうの」


「名前も分からず探してたの?不思議な人」


「あ、あはは…いや…名字は知ってるよ。えっと…、白町さん」


「………黒川さん、だったかな」


「え、なんで名前…」


「私も名字だけ知ってる。お揃いだね」


「うん、…僕は黒川千夏。君は?」


彼女は春風のように美しくあたたかく、どこか胸の苦しくなる儚げな笑みを可憐な唇に浮かべた。




「私は、」







彼女の姿と春の濃密な気配が急速に遠ざかり、そこでやっと俺は気付くのだ。
また、いつもの夢か、と。






黒川千夏
黒川千夏
…………
いつの間にか寝ていたらしい。
ぼんやりと、けれど確かに夢の中から醒めているのにそれでも未練がましくあの時からあまり大きくなっていないように見えなくもない両手を見つめる。

でもやっぱり、大きさはあまり変わっていないとはいえ、子供の時のあの骨ばっていない手とは違う。
小さく溜息をついてから、目線を上げる。


心地良く揺れる電車はあまり混んでいない。
電車の硬めな椅子に身を任せ、いつの間にやら寝てしまっていた。気が緩んでいるのか、それとも単にこの揺れのせいなのか。


櫻坂ー櫻坂ーとアナウンスが聞こえて立ち上がる。
ゆっくりと速度を緩める電車の四角い窓の外は、晴れやかな青空。
少しだけ浮ついているようで少しけだるげな様子の同じ制服の少年少女達と共に電車を降りる。






今日から、新学期だ。

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