(やっべ…寝る前にトイレ行き忘れた……)
今、家の中では"毛布の中から出たくない俺"と"トイレに行きたい俺"が決死の攻防戦を繰り広げていた。
自分は元来怖がりではない。お化け屋敷でもビビらない方だし、風呂に入っている青年をわざわざ起こさなくたって、夜のトイレくらいは一人で行ける。
しかし今は冬、12月。暖房をつけているわけでもないので、毛布から一歩足を出しただけで誇張して言えば俺は死ぬ。ただ俺の尿意はほぼ限界に達している。この場で醜態を晒せば、これまた誇張して言えば俺も青年も死ぬ。精神的に。
1分後、俺の中で最終的に勝ったのは、
尿意だった。
満を持してバッ!と毛布をめくり、ダッシュでお手洗いへ駆ける。
服の隙間から冷えた風が入ってきて、冷たい床が足を凍らせようとする。
それでもなんとかそこまでたどり着き、幸せの瞬間を感じる。
頭に花が咲かんばかりに浮かれ歩いていた俺だったが、足元に妙な感じがしてふと立ち止まった。
何かが足の裏につくような、でも水よりもぬるぬるしている、そんな感触。薄々感づいてはいたが、明かりをつければそこにあったのは大量の
血のついた足跡。
それは青年のいる、風呂場へと向かっていて────
恐る恐る、ドアを開ける。そこには、血にまみれた青年が────
いた。
浴室は塗りたくられたように真紅に染まり、赤い部屋を彷彿とさせる。
それはまるで、風呂場を汚れを落とすためのものではなく、アートの制作現場であるかのようだった。誰のともわからない赤黒い血の痕がそこかしこに散らばり、生臭いにおいに吐き気がする。
それだけでも十分異質なのに、彼の姿を見て俺は愕然とした。
笑っていたのだ。
浴室同様、彼の体も真っ赤に染まっていた。足下にはカミソリやらカッターやらの様々な刃物が散乱していて、自分で切ったのかそれとも誰かに切られたのか、数多の傷口から血があふれ出ていた。それにもかかわらず、彼はまるで薬物におぼれた外道のように、エクスタシーの境地に達したように、恍惚とした笑みを浮かべていたのだ。
思えば、なぜ俺がここまで彼を信用できたのか、自分でもよくわからなかった。
なぜ殺したのか、誰を殺したのかさえも知らない、さらには警察の捜査をかいくぐるまさに魔性の男。
はじめこそ警戒していたものの、いつの間にかこんなことになってしまったのは、その人を殺したように思わせない口調からか、それともその類いまれなる美貌と性格に酔いしれ、それを"うい"と思ってしまったことからか。
ふと鏡を眺める青年の手が止まり、ゆっくりとこちらを見ると、申し訳なさそうに、はたまたどこか楽しそうに笑う。
本当は、ここまで一緒に過ごしてきた相手にこんなことは言いたくなかった。きょうの青年はいつもの優しい彼ではない、これが夢であればいいのに、と何度も頬をつねっても、眼下で起こっていることに変わりはない。それどころか彼は徐々にこちらに向かって来、俺の顔に手を伸ばす。
もう、限界だった。
「これ以上俺に近づくな。愉快犯」
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!