「よし、これで準備は万端だ」
アパートを明け渡し、スーツケースを手にした俺は一人、雲ひとつない夜空を見ながら公園で風に吹かれていた。
旅に出る。
そう決めてから、もう2ヶ月が経とうとしている。せっかく合格した国立大だ、勿体ないと親には猛反対されたが、すぐさま大学を中退し、ここまで来た。
アメリカ・ロサンゼルス。ここが俺の次の舞台だ。
時刻は22時を過ぎたあたり。公園を通るものは誰もいない。
さて、コンビニで夜食でも買うとするか。
そう思った俺は、ゆっくりとベンチから立ち上がり、小さな通りへ出る。
昼間は人通りが絶えないようなここも、夜になると随分と閑散とするものだ。
おにぎり、お茶、それからチョコレート。そういえば俺は、昔からチョコレートが好きだった。毎週のようにスーパーで親にねだっては、吹き出物が額を覆うほどに食べたものだった。味は決まってミルク。この味がしばらく食べられないと思うと、少ししんみりとした気持ちに駆られる。
事件が起きたのはこの後だった。
俺がコンビニを出るとすぐに違和感に気づいた。
路地裏……ビルとビルの隙間から、何やら変な音がする。水がしたたる音と、微かに聞こえる呼吸音。
そして何かが蠢く気配。
見てはいけない。
本能的にそう察知したものの、やはり好奇心には抗えない。俺はビルに張り付くと、気付かれぬようそっと頭だけを横に出した。
血だった。
暗くてよく見えないものの、被害者は顔や腕、様々な箇所から出血しているように見えた。つい今亡くなってしまったのか、息はしていない。
これだけでも十分恐ろしい話だ。
だが俺は、それよりも"もう1人"の人間に、身の毛もよだつほどの恐怖を感じた。
白髪の、二十歳を過ぎたあたりの青年。背は俺よりも高く、異質感を漂わせている。さらにこの青年、被害者から真っ赤な血しぶきを浴びているのにも関わらず、何故か恍惚とし口角を上げている。そんな態度に俺の背筋はすっかり凍りついていた。
コイツ、ヤバいやつだ────
そう思ったものの、動揺して全く動けない。
刹那。
こちらに気がついた青年が、ゆっくりと近づいてくる。真っ赤に染められた顔に、手には鋭いナイフ。不敵な笑みを浮かべ、もはや彼は俺しか見ていない。
殺される────
そう身構えた時だった。
ウィーン、と自動ドアが開き、客が出てくる。
あまりに意外な展開に、俺も青年も注意が逸れる。
客は自分たちには気づいていなかったようだが、俺は一種の不安に駆られていた。
ここで見つかったら、共犯にされる!
そう考えるよりも先に、俺の足は通りの先へと動き出していた。
しかしすぐさま男の手が肩に触れる。真っ赤な血が俺の服について思わずゾッとする。
「ヒッ…!」
男は何も言わない。また不敵な笑みを浮かべて、路地裏の向こうを指さすだけ。
こっちに逃げろ、と……?
俺の心は、決まっていた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!