佐久間さんに何も言わず
出てきてしまった……
……これで、良かったんだ
あの人のそばにいると
俺が俺じゃなくなる気がする
自分が
分からなくなる
朝早すぎて、まだ店のひとつも空いていない
冷たい空気が
すうっと頬を撫で通り過ぎていく
また、いつも通りに戻るだけ
なのに…………
忘れるには、あの人から受けとったものが多すぎる
まだ、昨日のもやもやが残っている
あの人に刻み込まれた快楽も
あの人に貰った、温かさも
全部、全部残っていて
俺は、こんなの
知らないから──────
幼少期
物心着いた時には
どこかの家の養子だった
そこの家族は
なんで俺を引き取ったんだろうってくらい
俺に対して卑劣で
俺はただただ働くだけ
都合のいい道具でしか無かった
1番キツイのは風邪をひいた時
病気を移さないように
階段の下の物置に連れていかれる
一日のうちにその扉が開けられるのは
朝、昼、晩
菓子パンがひとつ
部屋に投げ込まれる時だけだ
あとはひたすら
そこで耐えるしかない
そんな冷たい床の上で育ってきた
なのに佐久間さんは
気分が悪いっていう俺を気にしてくれた
料理を作ってくれた
それがなんでもないように
笑って、グリグリと俺の頭をもみくちゃにした
いまさらあんなに温かいものを
俺が受け取っていいはずかない
そうだ、俺には
これくらいの温度が丁度いい
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!