ソウルから電車を乗り継いで3時間。
ゴヌが降り立ったのは、潮の香りと、ウミネコが鳴く声だけがこだまする町だった。
船体が錆びた漁船がいくつも並ぶ海沿いを、履き慣れない黒い安物の革靴で歩く。手には、数年前に彼女の母から届いた大量のみかんに貼り付けられた送り状が握られていた。
それを頼りに、真夏の日差しが照る中、ゴヌは額の汗を拭うこともせず彼女の実家を目指した。
30分ほど歩くと、緩やかな坂道が見えてきた。その先には、色褪せた屋根を乗せた小さな家がぽつんと立っていた。門には彼の父親の名前。
彼女の家だ。
ゴヌがその家の扉前に立った時、蝉の声は耳を突き破らんばかりに響いていた。
呼び鈴などない。古びた扉を叩くと、中から獣のような足音が不安定な間隔で近づいてきた。
「……誰だ、お前は」
立て付けの悪い引き戸を開いて現れた男は、使い古された雑巾のようなシャツを纏い、昼間だというのに煮え返るような酒の臭いを全身から放っていた。
無精髭に埋もれた顔。肝臓を病んでいるのだと一目でわかる、土気色のくすんだ肌。
その奥にある濁った眼光に溜まるのは、娘を亡くした者の悲しみか、あるいは自分の所有物を奪われた者の荒んだ光か。
「…キム・ゴヌといいます」
「あぁ?だからぁ!誰だよ、お前!」
既に酔っているのか、男は時折しゃっくりをしながら怒鳴った。
「…〇〇の恋人です。一緒に暮らしていました。ソウルで」
その言葉を口にした瞬間、男の表情が醜く歪んだ。
血管の浮き出た首筋が赤黒く染まり、唾を飛ばしながら怒号を上げる。
「…あぁ、ああ、お前か! お前が娘を唆して、俺から奪ったんだな! 俺は親を捨てて男と逃げるような汚れ者に育てた覚えはねえ。…娘が死んだのは、全部お前のせいだ、疫病神!!」
理不尽な言葉の礫を投げつけながら、男はゴヌを追い払おうと肩を突く。
その肩越し、薄暗い居間の奥。
安っぽい茶箪笥の上に、何の飾りも供え物もなく、ただ直置きされた白い陶器の壺が見えた。
窓から差し込む埃っぽい光の中で、それはあまりに寒々しく、場違いに白かった。
「………!!」
ゴヌの頭の中で、何かが音を立てて切れた。
彼は玄関を塞ぐ男を強引に跳ね除け、土足のまま家の中へ上がり込んだ。
「おい!!何勝手に人んちに上がってんだ!!」
「返せ……〇〇を返せ!」
「誰の許可を得て入ってんだクソ!! 泥棒が!!」
背後から男が猛然と組み付いてくる。濃い酒の臭いと、脂ぎった吐息が首筋にまとわりつき、ゴヌの真っ黒なスーツを力任せに掴んだ。
男はゴヌの肩に爪を立て、振り回すようにして玄関まで引きずり戻そうとした。
ゴヌは、床に散らばった古新聞や空き缶を蹴散らし、体勢を崩す。
「来い!!警察に突き出してやる!!」
男がゴヌの腕を強引に捻り上げ、背中を壁に叩きつける。
鈍い衝撃が背骨を走り、古い壁板がミシミシと悲鳴を上げた次の瞬間、男の血管が浮き出た汚い拳がゴヌの左頬をまともに捉えた。
ドゴッ、と、頬の肉が潰れる鈍い音が頭蓋の芯まで響いた。
視界が白く爆ぜ、脳が揺れる。奥歯の隙間からどろりとした鉄の味が広がり、膝ががくんと折れた。
男は倒れ込んだゴヌの襟首を掴み、なおも殴りかかろうと拳を振り上げる。
だが、その時、ゴヌの視界に彼女_正確には彼女だったものが映った。
茶箪笥の上、そこには何の供え物もなく、ただ埃を被ったまま、誰にも撫でられず、弔うこともされずに放置されている骨壷があった。
(……一人で、怖かったよな、痛かったよな…ごめん、ごめんな……)
『ねえゴヌ、これ味見してみて』
『ゴヌ、今日何食べようか』
『ちょっとゴヌ、靴下また裏返しのままなんだけど!』
『ゴヌ、』
『ゴヌ』
『ゴヌ』
自分の名前を呼ぶ彼女の声と姿が、殴られて靄がかかった頭の中で何度もリフレインした。
その声が響くたび、胸の奥が焼き切れるような熱を帯びる。
今の彼女は、笑うことも、怒ることも、名前を呼ぶこともできない。ただ、あの無機質な陶器の中で、冷たく沈んでいるだけなのだ。
「……っ、ぁぁあああ!!」
ゴヌは獣のような咆哮を上げ、組み付いてきた父親の胸元を突き飛ばした。
床に倒れ込み驚愕に目を見開く父親を、憎悪の籠もった眼差しで射抜く。その隙にゴヌは床を蹴り、机を乗り越えて茶箪笥の前へ降り立つと、その上に置いてあった陶器の重みをひったくるように両手で抱え込んだ。
散乱する酒瓶、こぼれた酒の染みた床、彼女が死の間際まで踏んでいたであろうその場所を、土足のまま踏みにじる。
「おい待て! それは俺のもんだ! 俺の娘だ!!」
「〇〇はお前のものじゃない……!!!」
腕の中の彼女の冷たさがゴヌの肌から染み込み、血管を巡って殴られた頬の熱を冷ますように伝わってくる。
ゴヌは再び机に乗り上げると、床に転がった男に目もくれず大股で玄関へと向かった。
「……っ、この、泥棒が!!」
ひいひいと情けない声を上げてよろめきながら立ち上がった父親が、形相を変えてゴヌの背中をめがけて突進してきた。
その手には、空の酒瓶が握られている。
怒号と足音を背後に捉えたゴヌは振り向きざまに、迫りくる父親の顔面へ向けて空いた右拳を力任せに振り抜いた。
「ぶふッッ!!!」
男の口から衝撃で欠けた歯が飛び出し、大きな音を立てて床へ倒れ込んだ。
ゴヌは男へさらなる一撃を食らわせるために、その酒で膨らんだ腹に跨り、震える拳を振り上げる。
殺してやりたかった。
このまま、彼女が味わった以上の痛みを与えて、二度と立ち上がれないようにしてやりたかった。
だが、拳がその醜い鼻先にめり込む寸前、不意に彼女の、あの静かな横顔が脳裏を掠めた。
『お父さんね、昔はよくおんぶしてくれたんだよ。お母さんに内緒でアイス買ってくれたりしてさ。……本当に、昔の話だけどね』
寂しそうに、けれどどこか懐かしむように笑っていた彼女。
どれほど壊れてしまっても、彼女にとっては世界に一人だけの父親だったのだ。
殺意を込めた拳は、寸前で拒絶の形へと変わった。
肉を抉り、骨を砕く代わりに、その胸元を力一杯突き放す。
痛みに悶える男は、積み上げられた酒瓶の山へと倒れ込んだ。ガチャガチャと、無機質な硝子の割れる音が部屋中に響き渡る。
ゴヌは、抱え込んだ壷を離さぬよう、乱れた呼吸を整える間もなく駆け出した。
「おい!!待て、待てよ!! 返せ、俺の娘を!!返してくれ…!!!」
背後で響く、惨めで、哀れで、どこまでも身勝手な男の怒号。
「…うちに帰ろう」
ゴヌは優しく、優しく呟くと、腕の中の骨壷を手早くボストンバッグに仕舞った。
そして、汚い声で叫び続ける男を一度も振り返ることなく、暴力的なまでの白光が降り注ぐ真夏の光の中へと飛び出した。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。