夏の陽光は、暴力的なまでの白さを帯びて空気を焼き尽くしていた。
アスファルトからはね返る熱気が、陽炎となって視界を歪める。その熱の渦を切り裂くように、ゴヌは歩みを進める。
真っ黒なスーツは真夏の光を執拗に吸い込み、逃げ場のない熱をその内側に溜め込んでいる。
噴き出した汗がシャツを皮膚に張り付かせ、不快な湿り気が全身を支配していた。
ゴヌは耐えかねたように、重たいジャケットを脱いで乱暴に右肩へ引っ掛けた。
左の頬は赤く腫れ上がり、脈打つたびに鋭い痛みが走る。
父親は追ってこない。あのふらついた体では無理だろう。
ゴヌは深く息を吐くと、海と道を隔てる胸壁へと登って腰掛けた。
目の前には、どこまでも広く伸びた空と海、テトラポッドに波が打ち付ける飛沫の音が響いていた。
ゴヌはおもむろに、持ち手に汗が染み込んだボストンバッグを開けた。中には驚くほど小さく、小さくなった白い彼女が静かに横たわっている。
ゴヌはその陶器の肌を、指先が白くなるほど強く、慈しむように抱きしめた。
「……〇〇」
噛み締めるように名前を呟いた彼は、震える手で骨壷の蓋を開ける。
中には、彼女だったものの残骸が詰まっていた。
かつては温かな血が通い、ゴヌの名前を呼び、くだらないことで怒り、笑い、泣いていた彼女。
そのすべてが、いまや言葉を持たない灰と、不揃いな白い破片に成り果てている。
不意に、降り注ぐ蝉時雨がさらに勢いを増した。
狂ったように、喉を震わせて鳴き続けるその声が、今のゴヌには耐えがたく忌々しい。
精一杯生きるための歌だなんて、そんな綺麗なものじゃない。
彼女が奪われた時間をあざ笑うかのように、蝉たちはその短い命をこれでもかと謳歌し、真夏の空気を震わせている。
死を目前にしているはずの蝉がこれほどまでに騒がしく、死んでしまった彼女がこれほどまでに静かなのは、一体どういう理屈なのだ。
「……クソッタレ」
ゴヌは震える唇で、吐き捨てるようにそう呟いた。
蝉に、運命に、そして彼女を救えなかった自分自身に対しての、精一杯の罵倒だった。
あぁ、どれだけ痛かったか。苦しかったか。寂しかったか。
彼女はその心臓が動きを止めるまでに、自分のことを一瞬でも思い出してくれただろうか。
「…俺はずっと君のこと考えてたんだけどなあ」
掠れた声で小さく呟いて目を閉じると、波の音とウミネコの声だけが耳を撫ぜた。
海、海、海_____
ああ、そういえば彼女は、自分の骨は海に撒いてほしいと言っていたっけ。
アパートの、風も通らないほど狭いベランダで。
室外機が放つ熱風をふくらはぎに感じながら、二人で分かち合った安いビールの味。
彼女が吐き出した煙草の煙が、夏の夜空に溶けていくのをぼんやりと眺めていた、あの穏やかな断片がゴヌの脳内で再生された。
__________
街灯の光も届かないような薄暗い場所で、彼女は手すりに顎を乗せ、遠くの街明かりをぼんやりと眺めていた。
「ねえ、ゴヌ」
ふいに彼女が言った。湿った風に揺れる後れ毛が、彼女の横顔に淡い影を落としていた。
「もし、私が死んだらさ。骨は全部、海に撒いてほしいな」
「はあ?なんだよ急に。縁起でもないこと言うなよ」
ゴヌが苦笑いしてビールを煽ると、彼女は真剣な眼差しをこちらに向けた。
「もしもの話だってば。納骨堂なんてつまんないじゃん。狭いし名前も顔も知らない人がいーっぱいいるんだよ?」
「海だって知らない人だらけだろ」
「うるさいなぁ。夏になったら海の家で焼きそばとかき氷をタダで食べて、冬になったらハワイで過ごすの。どうよ?」
「どうよ、つったって……まあ、楽しそうでは、ある?」
「でしょー!それに、海だったらいつでも波に乗ってゴヌに会えるんだから!…だからね、私が死んだら海に来てよね。絶対だよ。約束」
いたずらっぽく小指を立てた彼女の指先は、夏の夜の熱を帯びて、少しだけ汗ばんでいた。
その指を絡めながら、ゴヌは笑って答えた。
「……ああ。約束」
__________
繋いだ指の温もりを、永遠だと信じて疑わなかった。
あの日交わした約束が、よもやこんなにも早く、こんなにも冷たい石灰の重みになって、今、自分の掌の上にあるなんて。
指先から伝わる陶器の冷たさから逃れるように、ゴヌは骨壷の中へ手を入れると、彼女の残骸を手のひらに握りこめた。
震える拳を骨壷から抜き取って空に掲げ、ゆっくりと開いた。
真っ白な粒子が、真夏の暴力的な風に攫われて舞い上がる。
きらきらと、まるで銀の鱗のように光りながら、灰は残酷なまでに青い水面へと吸い込まれていった。
一振り、また一振りと、彼女がこの世界の一部になっていく。あの酒臭い、湿った暗い檻から、ようやく空へと解き放たれていく。
「……自由になれよ、〇〇」
水平線の向こう、ハワイまでだって、どこまででも行けばいい。
焼きそばもかき氷も、好きなだけ食べればいい。
だって、君はいつでも波に乗って会いに来てくれるんだろう。
太陽の光を受けてキラキラと光る灰が風に乗り、青いグラデーションの中に溶け込んでいくのを見届けながら、ゴヌは一心不乱に骨を撒いた。
けれど、最後の一握りになったとき。
ゴヌの指先が、目に見えて激しく震え始めた。
これをすべて撒いてしまえば、この世から彼女が完全に消えてしまう気がした。
あの狭い部屋の温度も、湿った布団の少しカビ臭いにおいも、彼女の柔い肌の感触さえ。
すべてがただの幻に成り果てる。
手放したくない。誰にも触れさせたくない。
この世のどこにも、彼女という重みがなくなることが、何よりも恐ろしかった。
ゴヌの頬に、一筋の涙が伝った。
それが彼女が死んでから初めて流した涙だった。
自分が泣いていることを分かってしまったら、もう駄目だった。耐えられなかった。
ゴヌの唇はわなわなと震え、次から次へと堰を切ったように大粒の涙が頬を滑り落ちる。
無様に漏らす吐息は夏の篭った外気よりも熱く、冷たい残骸となってしまった彼女にその熱を分けてやれないことがたまらなく虚しく、悔しかった。
ゴヌは、残った最後の一握りの灰を、自分の掌の中に強く、強く握り込んだ。
鋭い骨の欠片が、容赦なく掌の肉に食い込む。彼はその拳を、汗が染み込んだシャツの左側、自分の鼓動が激しく打ち鳴らされている場所へと押し当てた。
「……あ、あぁ……ぁあああ……」
嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。
両の目からは絶え間なく涙が溢れ、殴られて腫れ上がった左頬を伝って滴り落ちる。
ゴヌはただ獣のように背中を丸め、声を上げて泣いた。
喉を震わせるたびに肺が締め付けられ、呼吸がうまくできなくなる。
だが、掌に食い込むこの痛みこそが、今、彼女がここにいる唯一の、父親にも、死という概念にさえも奪えない証明だった。
掌の中で、彼女の欠片が自分の汗と涙を吸って、じわりと湿った重みを持っていく。冷たい残骸だったはずの彼女が、ゴヌの体温を受けて、まるでまだ生きているかのように熱を帯びた。
その熱を離したくなくて、彼は自分の胸を拳で叩くようにして、何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
何度も。
何度も。
何度も。
声が裏返り、掠れるまで彼女の名前を呼び続けた。
けれど、掌の白い灰は口を持たず、ゴヌの呼びかけに応えることはない。
その代わり、不意に耳元を掠めたのは、きゃらきゃらと底なしに明るく笑うあの日の彼女の声だった。
『海だったらいつでも波に乗ってゴヌに会えるんだから!』
いたずらっぽく小指を立てた、彼女の無邪気で、透明な声。
ああ、そっか。
そうだよな。
ゴヌの指から、少しずつ力が抜けていった。
彼女を自分の中に繋ぎ止めておくことは、彼女を再びあの暗い檻に閉じ込めることと同じではないのか。彼女が望んだのは、ゴヌの胸の中で永遠に眠ることではなく、果てしなく続く青い世界をどこまでも自由に泳ぐことだったはずだ。
ゴヌはゆっくりと、何分もかけて固まった指を一本ずつ開いていった。
開かれた掌の上には、赤い痕が深く刻まれ、汗と涙に濡れた「彼女」の最後の一片が、太陽の光を跳ね返して真珠のように白く輝いていた。
その瞬間、待ち構えていたかのように不意に吹き抜けた潮風が、彼の指の隙間に残っていた最後の白い欠片を、優しく、本当に優しく奪い去っていった。
すべてを海に還したあと、ゴヌはただ、空っぽになった骨壷を抱え、茫然と穏やかな水平線を見つめていた。
脱ぎ捨てたジャケットは、足元で潮風に吹かれ、頼りなく揺れていた。
空はいつの間にか、抜けるような青から紫へ。
白く刺すような太陽は燃えるような緋色へと変わっていた。
ゴヌの掌には、彼女を強く握りしめた時の熱いしびれと、消えることのない赤い痕だけが、いつまでも残っていた。
蝉はもう鳴いていなかった。
END.
𖤐 ̖́-最後までお読みいただきありがとうございました!
X(@shi0yasan)にて、短編やお話の裏設定など上げておりますのでよろしければぜひお気軽にフォロリクお送りくださいませ!












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。