彼女が発ってから、一週間が過ぎた。
最初のうちは「実家に着いた」「病院に見舞いに行った」「ご飯食べた?」やらの短いやり取りが続いていたが、三日目を過ぎてからぱたりと返信が途切れてしまった。
電話をかけても電源が入っていないのか繋がらない。
何かがおかしい。返信はいつもそっけない彼女だが、丸一日メッセージを未読にしたことなんて今まで一度もなかった。
「無事?」
「今どこにいる?」
「メッセージ見てよ」
トーク画面には、彼女の安否を心配するゴヌのメッセージが独り言のラベルが剥がされぬまま並んでいた。
一週間が経ち、二週間を数える頃には、部屋の空気は淀んだ水のように重く沈んでいた。
何度目かわからなくなった電話をかけても、相変わらず機械的なアナウンスが繰り返されるだけだ。
ゴヌは一人、日当たりの悪いキッチンに立ち、女の幻影を見ようとした。調味料が並んだ棚、色違いのペアの食器、大胆に鍋を混ぜるせいであちこちに飛んだ油染み。
風景は、あの日となんら変わりない。
なのに、彼女という存在が欠けているだけで、そこはひどく寒々しい、他人の家の残骸のように思えてならなかった。
警察に行こう。
絶対に何かがおかしい。
ゴヌがそう思い、足にサンダルを引っかけた時だった。
ソファに投げ出していたゴヌの携帯電話が突然震えた。
心臓が跳ねた。
「〇〇…!」
ゴヌは弾かれたように携帯の元まで駆け、フローリングに靴下を滑らせながら、もどかしい手つきで端末を掴み取った。
画面に表示された彼女の名前。
止まっていた血流が一気に全身を巡り、指先までが熱くなる。ゴヌは震える指で通話ボタンを押し、受話器を耳に押し当てた。
「〇〇!一体今まで何して、」
『もしもし、姉ちゃんの彼氏であってますか?」
「……え?あ、はい」
鼓膜に届いたのは、焦がれていた彼女の声音ではなかった。
若く、どこか冷めたような男の声。
「姉ちゃん」という言葉が、ゴヌの思考を停止させる。
弟?確かに昔、彼女に弟がいるとは聞いたことがある。でもなぜ、彼女の携帯から弟がかけてくるのか。なぜ、彼女自身ではないのか。
不吉な予感が、冷たい水のように背筋を伝い落ちた。
『姉ちゃん、死にました。階段から落ちちゃって』
目の前が白く染まった。
蝉の声が、突如として遠い宇宙の音のように遠のいていく。
「……え?」
『だから、階段から落ちて死んだって。元々酒飲んで暴れる親父と揉めてたみたいだし。打ち所が悪かったらしくて」
吐き捨てるように言った弟の口からは、肉親を喪った者とは思えないほどの無関心さが滲んだ言葉が飛び出す。
ゴヌは真っ白になった頭をどうにか動かして言葉を絞り出した。
「いや、…え?待っ、待ってくれどういうことだよ、いつ?え?いつ〇〇はし、し死んだんですか」
『えー、いつだったかな……あ、そうそう、こっちに来てから三日目の晩だったかな。家で親父と口論になって、突き飛ばされたのか足を踏み外したのか……。まあ、そんなところです。親父も酔ってたから覚えてないって言ってるし。事故ですよ、事故』
三日目。それは彼女が帰ってくるはずの日だった。
ゴヌは、携帯電話を握る指が白くなるほど力を込めた。脳裏に、この部屋のキッチンで、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜていた彼女の背中が浮かぶ。
すぐ戻るからと笑って、陽だまりの匂いを残していった彼女。
その彼女が、暗く湿った実家の階段で、一人で、どんな思いで息を引き取ったのか。
「……葬式は」
ゴヌは低く問うた。
『はぁ?葬式? しませんよ、そんな金ウチにあるわけないんで。親父が「家で死んだんだから勝手にする」って言ってさっさと焼いちゃいました。でも親父、急に寂しくなったのか〇〇がいないと飯が食えないー、なんて泣きごと言って、骨壷を抱えて離さないんです。気色悪ぃ』
弟は短く鼻で笑うと、「じゃ、そういうことなんで」と、用は済んだとばかりに一方的に通話を切った。
ツーツーという無機質な切断音が、静まり返った部屋に響く。
世界から音が消えた。
ゴヌは、崩れ落ちるように床に膝をついた。
彼女が死んだ。
その事実は、先程鼓膜を震わせた電気信号から、意味を持った弾丸へと姿を変え、ゴヌの胸の真ん中を易々と撃ち抜いた。
日当たりの悪い部屋。
ついさっきまで、そこには確かに二人の生活があった。
警察へ行けば、彼女を連れ戻せば、またこの狭いキッチンで、ヘンテコな味の薄いスープを何度も味見させられるはずだった。
だが、彼女はもう、その肉体すら失っていた。
三日前の晩。ゴヌが彼女の帰りを待ちわびて、少し奮発した肉を焼こうか悩んでいたあの時間に、彼女は独り、暗くて潮のにおいがする階段の下で、冷たい床に頬をつけて動かなくなっていたのだ。
「……、は、…ふ、ふざけるなよ…」
ゴヌの喉から、乾いた笑いのような、嗚咽のような掠れた声が漏れた。
視線の先には、彼女が脱ぎ捨てていったサンダルが、玄関の隅に心細げに転がっている。
怒りが、悲しみを追い越してせり上がってきた。
彼女を死なせ、弔いもせず、その遺骨を飯炊きする世話人の代わりとして囲い込んでいる父親。その身勝手な執着。
死してなお、彼女はあの薄暗い、酒の臭いしかしない檻に閉じ込められている。
ゴヌは、床を叩くようにして立ち上がった。
足元がふらつき、視界が歪む。
それでも彼は、クローゼットから一度も袖を通したことのない真っ黒なスーツを、ひったくるようにして取り出した。
「…今、行くから」
独り言は、夏の湿った空気の中に溶けて消えた。
ゴヌは、クローゼットの隅に追いやられていた黒いトートバッグを掴む。
歯ブラシも着替えも入れていないそのカバンには、彼女を連れ戻すための確かな意志だけを詰め込んだ。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。