――暁の頃に、家に戻る。
夜の間中ずっと心配してくれていたらしい喜代子さんは、怪我はしていないものの、ボロボロの様子のわたしを見ると、すぐに中に入れてくれた。
そして朝になり、いつものように早朝の掃除にいそしんでいると、起き出した翠が部屋から出てきた。
そして、翠は、五体満足のわたしを見て、驚いたように目を剥いた。
微笑を浮かべて、いつも通り挨拶をする。
やっぱり翠もわたしが帰ってこないと思ってたんだな、と思って少し胸が痛む。
わたしは微笑を浮かべたまま、今は誰もいない自分の背後に視線を遣った。
――わたしがここに帰ってこられて、いつものように過ごせているのは、ひとえに。
*
時は、数時間前に遡る。
霊力がごっそりと身体の中から抜けた感覚があって。
わたしは今まで感じたことのない感覚に、思わずたたらを踏んだ。
ろくに術が使えなくて、霊力そのものを消費する機会がなかったから、今まで知らなかったけど……今たしかに『何か』が減った感覚があった。
思わず呟いて、ふう、と息を吐き出した。
そして改めて櫻蘭姫を見て、言う。
しかし。
わたしの予想に反して。改めて向き合った櫻蘭姫は、顔いっぱいに驚愕の表情を浮かべて、わたしを凝視していた。
櫻蘭姫のうつくしい顔立ちが、焦燥と屈辱に歪みかけているのがわかる。
どくん、どくん、と、心臓が早鐘を打ち始めた。
つまり、櫻蘭姫が言いたいのは。
わたしが今ここに立っているのは。
わたしが彼女との賭けに勝てた、ということ?
ぬばたまの黒髪を振り乱し、美しく強い女あやかしがわたしを鋭い目つきで睨む。
血に濡れたような真っ赤な唇が、きりりと引き結ばれる。
でも――と、目の前のあやかしを睨み返す。
火事場の馬鹿力がうまく機能したという自信が、あやかしとの賭けに勝つことができたという自信が、己を鼓舞した。
わたしの代わりにわたしの力を使い、人々を守るあやかしとなると。
そうして。
わたしは――最強の相棒を手に入れた。
*
……いや。
手に入れる、というのは、語弊があるかもしれない。
主人と使い魔、みたいな関係になったとはいえ、気位が高い櫻蘭姫を自由に操れるとも思えない。
自分で自分が信じられなくて、中庭を掃きながらため息をつく。
危機的状況だったから、恐怖心が麻痺してたんだろうか。
わたしがまさか、あの最凶のあやかしの一角を、一応とはいえ従えてる、だなんて……。
――でも。
わたしの霊力が人より多いのは事実なんだよね。宝の持ち腐れだけれど。
わたし自身はその「霊力」を使うことはできないけれど、これからは、櫻蘭姫を通して使うことができる。
人を助けられる。
……両親にも、褒めてもらえるかもしれない。
翠みたいに、さすがは私達の娘だ、って。
そういう話をしたあとに、櫻蘭姫は姿を消してしまったから、本当に呼べるかは試していなかった。
きょろきょろと辺りを見回す。
……うん。今、辺りに人はいない。翠は顔を洗いに行ったし、両親はまだ寝ている。
少しだけ、やってみよう。
いざという時、力を借りれなくては困るもの。
言霊をもって、彼女を召ぶ。
途端、舞い散る桜を幻視する。わたしの目の前で霊力が大きく渦巻いて、凄まじいまでの妖気を形作っていく。
そして気づけば、目の前の宙には、
血と桜に彩られた美女が浮かんでいた。
感動する。
本当にわたしが呼んだら、来てくれるんだ。
一度目の答えで、最凶のあやかしが顔を顰めてみせたので、最後は少しだけ尻すぼみになってしまった。
櫻蘭姫は呆れた顔でわたしを見下ろした。
つい数時間前のことのはずなのに、なんだか夢の中の話のように思えるんだから、しかたない。
あの時のわたしは恐怖と高揚で、ややこしいことは一切考えていなかったから。
櫻蘭姫が衵扇で口元を隠し、目を伏せる。
そして、「ならばわらわは」と、そこまで言った時、忙しない足音が近づいてくることに気がついた。
この足音は――。
咄嗟に言えば、櫻蘭姫はため息とともに指をパチンと鳴らした。
瞬間、桜の花びらとともに彼女の姿は掻き消える。きっと、姿を消す術を使ったんだろう。
そして、彼女の姿が見えなくなるのと、翠が中庭に面した軒先に出てきたのは、ほぼ同時だった。
ドッ、ドッ、とうるさい心臓の音を気にしないふりで、わたしは翠に顔を向けた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!