第2話

山月記 2
439
2020/05/28 09:02
 叢の中からは、しばらく返辞が無かった。しのび泣きかと思われるかすかな声が時々れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。
李徴
如何にも自分は隴西の李徴である
と。

 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。そして、何故なぜ叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人ともの前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人にうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形をいとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

 後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行をめ、自分は叢のかたわらに立って、見えざる声と対談した。都のうわさ、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかをたずねた。草中の声は次のように語った。

 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふとを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体からだ中に力がち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうしておそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめ、、、だ。自分はぐに死をおもうた。しかし、その時、眼の前を一匹のうさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間、、は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間、、が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心がかえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語もあやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句をそらんずることも出来る。その人間の心で、虎としてのおのれ残虐ざんぎゃくおこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少してば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかりうもれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿のいしずえが次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂きくろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせ、、、、になれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

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