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第4話

山月記 4
478
2020/05/28 09:02
 漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。

 最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等かれら虢略かくりゃくにいる。固より、己の運命に就いては知るはずがない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱をあわれんで、今後とも道塗どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるはい。

 言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。袁もまた涙をうかべ、よろこんで李徴の意にいたいむねを答えた。李徴の声はしかしたちまち又先刻の自嘲的な調子にもどって、言った。
 本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。

 そうして、附加つけくわえて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこのみちを通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、再び此処ここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

 袁傪は叢に向って、ねんごろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、え得ざるが如き悲泣ひきゅうの声がれた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

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