紫水は、頭をすっぽりと隠す薄絹の端を握った。ここは後宮で一番高貴な方々が集まる、朝議会場の前だ。
と言っても、今は夜なので正しくは『協議』だが。
この国では、平民が皇帝や王弟、皇族に会う時には顔を隠すために、薄絹を頭にかけるのだ。
紫水としては、化粧顔を隠す点ではとてもありがたい制度である。
逢姫は手を目の前の扉に向ける。
逢姫は首をことんと傾げる。
紫水は頷いた。
逢姫は、手を顎に添えて下を向いた。
紫水は逢姫の目の前に手を出して、軽く振った。すると、逢姫は直ぐに顔を上げて、すみません。と謝り、朝議会場の豪華な扉に手をかける。
そう、微笑んでゆっくりと扉を開けた。
冷涼な声が豪華な一室に響いた。
一室と一口(ひとくち)に言っても、部屋には軽く数百人は入れるかと言うほどの広さだ。
扉から見て、両脇には4本の朱色の柱が部屋を支えている。その前には色とりどりの官服を来たものたちが並んでいる。そしてやはり目立つのは、そのものたちの前に立つ濃い紫の官服を着た九人の者達だろう。
この者達をこの露で知らない人間はまず居ない。父である杳木(ようき)が後宮を毛嫌いしていたため、後宮事情にあまり詳しくない紫水でも知っているほどだ。人々は彼らを総じて『御賢九』(ごけんく)と呼ぶ。
この露が設立される際、梯(てい)を初めとする三つの国から三人ずつ、有能な貴族を選出し、歴代の皇帝に仕え、国の運営に貢献してきた者達がいた。時には、疫病の治療薬を国中に分布させるため馬で走り回り、またある時には悪帝を国のために罰して、皇帝の代わりに政治を行うなどした。
御賢九の役割の根本は露が設立されて数百年経った今でもかわっていない。ただ、皇帝を支えるためにあるのだ。
顔を伏せ、粛々と前に進む紫水は、脇に並ぶ御賢九を横目にみた。そして、玉座の少し手前で跪く。
そして紫水はいっそう深く、頭を下げる。
皇帝はその動きを、静かに見ていたが、
と、命じた。
紫水は頭を隠す薄絹をゆっくりと持ち上げて、目の前を見た。
と、小さく呟き、そしてため息をついた。
紫水の目の前にある玉座は、金色の長椅子だ。
背もたれには、露の守護神である朱龍と鳳凰が寄り添う様子が緻密に描かれている。
皇帝の後ろには、先程会った王弟 選唄が控えている。そして、皇帝の両脇には四人の女性が控えている。彼女達の共通点は、まるで天女のような美しい顔立ちを持っていることだろうか。彼女達は『露の花園』の住人。つまり、後宮に住む皇帝の妃だ。彼女達が微笑めば、大抵の人間は頬を赤らめて、ため息をつくだろう。
しかし、紫水は違った。
不敬であることをすっかり忘れて、四人の美姫に「魅入っていた」。周りからは、田舎の娘が妃たちの美しさにただただ、目を奪われているように見えただろう。
どうしたら、あんな美人が生まれるのだろうーー?もしや、顔をいじっているのか?
なんて、不敬にも程があることを考えていた紫水の耳に茶化すような響きの良い美声が聞こえてきた。
声のした方に視線をめぐらせると、楽しげな『美術品』がそこにはあった。
ーーーー皇帝が1番美しい。
そう確信した。
髪と瞳は異母弟である選唄と同じ濡羽色。おそらく父方の遺伝だろう。
照明で艶々と光り輝いているのが、憎らしい位美しい。顔は決して不健康には見えず、かと言って健康そうに肌が焼けている訳でもない。絶妙な色合いの肌だ。すっと通った鼻梁(びりょう)。静かな微笑みを浮かべる顔は、見るものの頬を赤らめるが、自分とは何か違う。そう感じさせる雰囲気をもっていた。
纏う衣は、この国でただ一人。皇帝のみが纏うことが出来る朱色の衣。それには五爪の龍が刺繍されている。
懲りずに考える紫水。
ーーー今から思えば、心の中で言っておけば良かったのだ。心の中に留めておけば。あの一言で全てが狂った。
ーー好奇心に負けてしまった。
それまで静かだった周囲が一気に騒がしくなった。皇帝の脇に座る四人の美姫達も口をあんぐりとあけ、両脇に控える官吏達もざわつき始める。
それから『無礼だコール』が鳴り響く。
当事者である紫水は、反論する。
それともーー、と紫水は左手を頬に添えて、微笑んだ。
パンパンッ
紫水 対 官吏、文官達の口論が続く中、突如その場を静まり帰らせる音が聞こえた。
音の出処は王弟 選唄が手を叩いた音だった。
選唄の言葉に官吏、文官達は苦虫を噛み潰したような表情をして、皇帝を見た。
その数多の視線を受けて、皇帝はゆっくりと立ち上がり、紫水のもとへ歩いてきた。
紫水はニッコリと微笑む。
皇帝は目を細めて、微笑んだ。
皇帝は手を己の胸に添えた。
ちょっと待ったと、紫水は手を挙げる。
反論しようとした。
でも、出来なかった。
皇帝の瞳には、確固たる光が浮かんでいたから。
絶対にこの判断は覆さない、と。
皇帝はニヤリと意地の悪い笑みを見せた。
だとするなら、残された選択肢は・・・
考えて、紫水は舌打ちしそうになった。
これだから皇族は、権力者は嫌なんだ。
そう言って皇帝は、満面の笑みを浮かべた。
そのやり取りに周囲は一気にざわついた。
ヤジを飛ばす者。驚愕で言葉が出ない者。
嫉妬の視線を紫水に向ける者。
彼らの反応は様々だが、思ったことはひとつだけだ。
ーー蛮族(ばんぞく/異国の人々のこと)が。
と、だけ。
そんなことは露(つゆ)ほども思わない、紫水はと言うと、
あー、整形してますか。なんて聞かなければよかった。ちょっと前の自分を殴り倒したい。
なんて事を後悔して、頭を抱えていた。
そんな様子を見て、目を細めながら微笑む
皇帝 秀 千燈。
かくして、紫水の後宮生活が始まったのだった。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。