私はそう言いシャーペンを握り直す。
頭の中には晴夏ちゃんのこと。
しかし目の前に広がるのは数式の嵐。
頭を振って、深呼吸。
…………駄目だ。全く集中が続かない。
仕方無く、目の前の数学を一旦頭の角に追いやり、私は席を立つ。
私は、図書室の雰囲気が好きだ。
だから、こうやって、数学をする時は決まってここに来る。
この、なんとも言えない未知の世界へ来たような静けさに包まれると、嫌なことが全部抜け落ちる。
そして、より数学に没頭できる。
何を隠そう、私は大の数学好きで、数学オリンピックの常連であり、銅メダルを貰ったこともある。
つまり、私が数学をするということは、これ以上無い幸せの嵐であり、何時もなら集中が途切れるはずも無いのだ。
しかし、矢張り頭の中を横切って尚且、頭の中を全て絡め取ってしまうのは、海吉晴夏についてのこと。
先刻からため息ばかりだ。
私は特に何をするでもなく虚空を見つめていた。
気付けば空は朱色に染められる途中で。
結局何も出来なかったなぁ……と考えながら重い鞄を持つ。
部活終わりらしいジャージで顔を覗かせたのは、有賀 悠希。
小学校時代からの付き合いで、いつもつるんでいるメンバーの中の1人だ。
悠希は、晴夏にそっくりな晴夏ちゃんを知っているのだろうか。
朝礼に参加できてないって……悠希らしいな。
先生に怒られなかったのか……?
本当にそっくりなんだけどなぁ……
どうやら悠希も少し気になってはいるようで、暫く目線を泳がせた後、6時になったから帰るわ、と言いながら去ってしまった。
私も、机の上の物を鞄に押し込み、失礼しました、と呟いてから図書室から出た。
また、明日も、晴夏ちゃんと喋れるかな。
細やかな願いは、夕焼けに吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!