―――バタンッ。
真っ暗な夏の夜空から一転、玲とのマンションに帰ると玄関に付いている温白色の明かりが静かに灯っていた。
今は何故か、それだけで張り裂けそうな程の意味の分からない焦燥感も少しだけ和らいだ気さえする。
玄関に、女物の靴はなかった。
「‥‥紗季、おかえ―――」
「抱いて」
「‥‥‥え?」
「あたしを抱いて、玲」
「‥‥ちょっと、紗季?どうした?」
「いいから!今日来た女と同じように抱いていいから。いつもみたいにあたしに気を回さなくていいから、早く」
「ちょっ、紗季?」
靴も鞄も、一つに束ねていたヘアゴムも投げ捨てて出迎えてくれた玲をグイグイと寝室まで追いやる。
ただ困惑の色を隠せていない玲はいつものあたしじゃない事を不思議に思いながらも「‥‥‥いいの?」っと問う。
―――何も、考えたくない。
言葉なんて要らない。今は玲が欲しい。
「‥‥ねぇ、本当にいいの?俺の好きなようにして」
「同じこと、言わせないで」
あたしの世界はあたしのモノよ。
それが例え人とズレていようが、歪んでいようが、不条理だろうが関係ない。
玲と身体を重ねると、その時は後先の事を何も考えなくて済むからラクでいい。
これでもかってくらいに彼はあたしの一喜一憂に反応しては、あたしを一番にしてくれる。
「‥‥んはッ、玲、ちょっと待って‥‥ッ!」
「黙って」
「もう無理っ、」
「我慢しないでイッていいよ」
だけど今日は、違った。
もう何度目だろう。
カウント出来ないくらい、玲はあたしを激しく求める。両腕を掴んでピタリとくっ付いて離さないこの行為は、いつもの彼ではなかった。
こんなにも執拗に求められた事なんて初めてだ。
「玲ッ、んっ、もう限界‥‥‥ッ!」
「紗季のここはまだまだ俺を欲してる様だけど?」
敏感になり過ぎたあたしは下に敷いている真っ白なシルク生地のシーツが身体に触れるだけで感じてしまう。
ツツーッと舌を這わされた時、あたしの記憶はなくなった。
「――――ん、」
「‥‥あぁ、起きた?」
「今、何時?」
「まだ深夜の3時だよ」
目を覚ますと、隣には玲が横になってノートパソコンを開いていた。
ゆっくり身体を起こすと、ズキッと走る腰の痛みに思い出すつい先ほどまでの行為の数々。
「‥‥玲っていつもあんな風に女を抱いてんの?」
「んー?」
「ねぇってば、」
パソコンの画面から目を離さない玲の顔をグイッとあたしに向けて問う。
仕方ないねっと言いたげな彼はあたしの目を見て、それから柔らかく笑った。
「‥‥時と場合によるよ」
「‥‥へぇ」
「今日の紗季は、僕ですべてを忘れたかったんでしょ?」
「‥‥‥」
「忘れさせてあげられてたら、いいんだけど」
そう言って玲が画面に視線を戻した瞬間、左肩に感じる痛みに顔を顰めた。
遥斗と別れた後、美紀に傷の具合を見てもらった時には痛みなんてなければここまで疼くこともなかった。大して目立たない傷跡が残っているだけだって言っていた事を思い出した。
なのに、今更どうしてこんなに痛むの?
「‥‥‥」
玲の横顔を見ながら考えてみても求める答えが出てくる事は愚か、この時間にカタカタとキーボードを叩く姿を見て、きっと忙しかったんだろう彼をお構いなしに押し倒してしまった事に少し罪悪感を覚えた。
それから数日後の事だった。
一番恐れていたことが起きたのは。
いつもの様に同じ部署の同期達とランチから帰って来た直後にそれは始まった。
ブーッブーッブーッ––––––––‥‥。
着信:お父さん
「やだ、嘘でしょ」
「紗季、どうしたの?」
「あー、ごめん。ちょっと電話」
一瞬出ないでおこうかと悩んだけれど、美紀からお父さんの事を聞いていたから出ざるを得なかった。
名前を見るだけで、こんなにも緊張する。
「‥‥もしもし」
〈‥‥紗季か。〉
「そう、だけど」
〈お前に話がある〉
久しぶりの会話も相変わらず、愛想の「あ」の字もないお父さんの声はそれだけであたしを否定している様に聞こえるから嫌い。
「‥‥話って、どんな事?」
「お前、何やっているんだ」
「‥‥‥何って?」
「お前は何の為に家を出て同棲しているんだと聞いてるんだ」
「‥‥‥」
やっぱり思った通りのその話。
玲が女を連れて歩いてる姿を見たからだろう。その件については遅かれ早かれ問い詰められる事は分かっていた。
けれどだからってどうする事も出来ないし、ましてや玲に「女を連れて歩くな」なんて同じことをしているあたしが言えるわけもなかった。
「今週末、家に顔を出しなさい」
「‥‥‥‥」
「松本家の長女がいい年して何をふらふらしてるんだ」
「‥‥分かった」
「大体お前は昔から男を見る目がなさ過ぎる。だからワシが見合いをしてやってたんだ」
「分かったってば、じゃあ仕事だから切るね」
「‥‥‥ッ、」
これ以上お父さんの口からあたしの事をとやかく言われたくなくて、電話越しにまだ何か喋っていたようだけれど関係なく通話を切った。
何が見合いをしてやっていた、よ。
何が松本家の長女よ。
自分の顔に泥を塗りたくないだけの見栄っ張りのくせに。
一流企業の財閥でもないのに出来過ぎた事を押し付けるのはやめて。
「紗季?ほんと大丈夫?ほら、珈琲淹れたよ」
「あぁ、ありがとう」
どんなに心の中で悪態をついたところで、本人には何も言えない事が苦しい。あの家の中でお父さんの存在は絶大だった。
「―――ただいま」
「お帰り紗季、ご飯出来てるよ」
「‥‥‥玲、帰ってたんだ」
「‥‥‥どうしたの?」
「‥‥‥‥」
「お前が女を連れて歩いてた所為であたしは日曜日実家に帰る事になったから落ち込んでいるんです」っとは言えずに、何でもないって返答をしながら玄関の鍵を閉めた。
一番嬉しいはずの日曜休みが、こんなにも憂鬱になったのは初めてだった。
億劫なその日は、感覚的にずいぶんと早く訪れた。
「‥‥ただいま、お母さん」
「おかえり、紗季。お父さん、書斎に居るわ」
「‥‥‥そう」
無駄に大きく構えている和風を象徴しているかの様な実家。
塵一つない玄関を跨いで、久々の畳の匂いが鼻を掠めた。
「お姉ちゃん‥‥‥」
「美紀、この前は有難う」
「‥‥死なないでね」
「いっそ死にたいわよ」
書斎へ向かっている最中に美紀が二階から下りてきて顔を覗かせた。その表情はあたしを心配していると言うよりは寧ろ最後の別れでも言いたげな顔をしていて、いよいよ肩に力が入った。
―――コンコンッ。
「お父さん、紗季です」
「‥‥入りなさい」
入りたくない思い満載でゆっくりとその忌々しい扉を開けた。
扉を開けた途端に視界いっぱいに広がる本棚と、その紙とインクの匂いがするここはお父さんそのものだった。
「そこ、座りなさい」
「‥‥‥」
私と目を合わせる事もなく、淡々と言葉を紡いでいくお父さん。昔と何も変わっていなかった。
部屋の中央には木目調がハッキリと浮き出ている机と真っ黒なソファが置かれている。そこに私はゆっくりと腰を下ろした。
「はっきり言う」
そう言いながら向かいに座ったお父さんは眼鏡を外しながら言う。
「玲くんと別れなさい」
「‥‥‥‥ッ、」
「彼が浮気をしている事はお前も知っているんだろう」
「‥‥‥」
「彼相応に職の位の高い人を見つけてやるから、今すぐこの家に戻ってこい」
「‥‥‥いやよ」
浮気?職の位?
お父さんは本気であたしがそんなものの為に玲と一緒に居ると思っているんだろうか。だとしたらお門違いもいいとこ。
親の心子知らずと言うけれど、子供の気持ちだって親は何も分かっていないじゃない。
頭の堅い古びたイメージやレッテルで子供を支配するのもいい加減にしてほしい。
「お前は何も分かってない!」
「‥‥分かってないのはお父さんもでしょう?」
「一ヶ月後、お得意さんのご子息と見合いを組む」
「‥‥‥だから、」
「それが嫌なら玲くんと結婚するのか別れるのか決めることだ」
「はぁ?」
「お前いい年して恥ずかしくないのか!みっともない事はしてくれるな?」
「‥‥‥」
この時悟った。
「‥‥分かった、一ヶ月後ね」
「あぁ」
この人にどんな理由をぶつけようが、そんな事は関係ないのだと。何を言ったって無駄だって事を。
「‥‥でも、お父さんの言う通りになると思わないで」
それだけ置いて息が詰まりそうな忌々しいこの部屋を出た。
あたしに残された選択肢は、たった今から数少ないものになった。
―――玲と別れるか、結婚するのか。
はたまたお父さんが用意する縁談相手と結ばれるのか。
「‥‥‥最低、傘忘れてきちゃった」
ポツリ、ポツリ。
突然降り始めたそれは段々と軽快なリズムを刻むかのようにアスファルトの上を濡らし始めた。
気持ち悪い程の灰色一色に染まった空は、今のあたしの心情をまるでそのまま映しているみたい。
「‥‥ただいま」
玲が待っている家の玄関を開けた時には、雨が滴るくらいびしょ濡れになっていた。
「お帰り。実家の用事って早かったんだ‥‥‥ね」
「‥‥まぁ、ね」
「って、どうしたの?傘ないなら連絡しなよ、迎えに行ったのに」
「‥‥‥」
「ちょっと待ってて。タオル持ってくるからね」
まだ昼前だって言うのに薄暗い廊下の電気を付けながら、あたしの濡れた鞄を持って洗面所へ向かおうとする玲。
「‥‥行かないで」
「‥‥‥‥」
その背中に抱き付いた。
「‥‥実家で、何かあった?」
ピタリと止まった玲はその態勢を崩すことなく、あたしに抱き付かれたままそう問う。
雨で冷え切ったあたしの身体は途端に彼の体温を共有しはじめた。
「玲にとって、すごく迷惑な話をしてきたの」
「‥‥へぇ。それって、どんな事?」
「‥‥言えない」
「良いから、言ってみなよ」
「‥‥‥」
「‥‥‥紗季?」
雨の音だけが、この空間を支配した。
どんよりとした気配が二人の間を過ぎていく。
「‥‥玲と結婚するか、別れて他の男と結婚するか決めろって、言われたの」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
あたしは知っている。
玲は最初から結婚なんてする気がないと言う事を。あたしと一緒で愛だの惚れただのに縛られたくない人だと言う事を。
出会った時からそう言っていたし、何より彼には彼の女が他に居るはずだから。
「‥‥‥へぇ」
「ま、真に受けなくていいよ。あんなお父さんの言ってることなんて」
「そんな事、言われたんだね」
ようやくあたしと向き合う様に振り返った玲の表情は髪に隠れていた。けれど見上げた際にチラリと見えた彼の口元は、何故かニヤリと笑っていた。
「‥‥玲?」
「んっふふ。あぁ、何?」
「どうか、した?」
「じゃあ、さ。僕と結婚してみる?」
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!